こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

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子猫殺しのその後

「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ

坂東 眞砂子 / 双風舎



赤ちゃんの生き死ににふだん接している新生児科医として、というよりもむしろ、猫を多頭飼いしている「愛猫家」のひとりとして、関心をもってはいた。著者の、特定の猫には住みかを与え餌を与え、著者にとっては貴重なことらしい性交と出産もさせるのに、その結果生まれる子猫は即座に崖から投げ捨ててしまう、その非対称さが腑に落ちなかった。生命一般にたいして著者がとる態度が、自称しておられるほどに敬虔な態度といえるものなのか、私には疑問であった。むしろ、この非対称さ故に、私は著者が生命に対してひどく恣意的で不遜な態度をとっているように思われてならなかった。

話題の子猫殺しのトピックばかりではなく、連載のエッセイ全体を通読してみたら、それで初めて分かることもあろうかと思ったので、本書を京都市図書館から借りてきた。しかし、エッセイ自体の内容は「美味しんぼ」で山岡史郎君が述べていたようなことと大差がなかった。全体に、陳腐な論考だと思った。子猫殺しを持ち出す必然性を感じさせるような斬新さは感じられなかった。あえて子猫殺しに言及したのは、子犬殺し(じつは猫だけではなかったのだ)への反響に腹が立ったから、という以上の理由がないように思われた。

本書では、3人の論客との対談によって、このエッセイの新聞掲載時に受けた攻撃に対して反論している。しかしその反論も、私には、こどものけんかの水準を超えないように思われた。曰く、攻撃してくる面々も牛や豚を殺して食べてるじゃないか私が子猫を殺すのとどう違うのだと。あるいは、避妊することによって子猫の存在の可能性を絶つことも生まれてしまった子猫を殺すことも同じことだろうと。このような主張は、私には、見方によっては共通する点も無いとは言えない事項を持ち出して、部分的な類似点を無理に拡大して全部が同じ事だと言ってしまう、ひどく粗雑な議論のしかただと思えた。

反論の低水準さを別にしても、反論するということ自体が戦略的な誤りだと、私は思う。あのとき著者に対して集中的になされた攻撃は、著者自身の生命すら奪えと主張するような、極端で脅迫的なものであったからこそ社会的な問題とされるべきだったのではないか。であれば、著者がなすべきは脅迫の不当性を訴えることであろう。しかし著者が本書で行ったのは、必死になって子猫殺しの正当さを主張することであった。そうすることで、脅迫を反論に格上げしてしまった。愚かなことだ。私とて著者は脅迫にさらされるべきではないと思う。それはしかし、子猫殺しが正当な事かどうかとは関係がないことだ。
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by yamakaw | 2010-03-23 21:33 | 読書

混み合うNICUで

昨日は極低出生体重児の出生あり(当然入院)未明に呼吸障害の早産児、午前中に低出生体重の双胎。保育器も人工呼吸器もほぼ全機稼働している。ほぼ、というのは突発的な入院(たとえば胎盤早期剥離とか)あるいは機器の故障にそなえて1台は予備を置いているからだが。

その予備を使い切るかどうかがいつも胃痛の種である。ちなみに明日は他院で手術を終えて帰ってくる予定の子がいて、その子が帰ってきて残り1台ずつの保育器や人工呼吸器を使い始めたらいよいよ当院は残数0となる。突発的な分娩時仮死などあったら、当座はもちろん蘇生するとして、数時間以内に他院を探さなければならなくなる。かなり追い込まれた状況ではある。それは何とか避けたいと思って、身勝手を承知で帰院の延期ができないか相談してはみたのだが、この子が明日出て行くことを見越してあれこれの計画を立てているからと、延期は断られてしまった。

しかしそれでも今夜のうちは予備があるといえば、無いわけではないのだ。各施設に、取り置きの空床はたいてい存在するはずなのだ。その取り置き以外に空きがあれば、施設間でやりとりする空床状況表にはじめて公示される。そのような臍繰り的な、とっておきの1床はたいがいあるものだ。現状でそれを確保しておくのは身勝手でも怠慢でもないと私は思う。リスク管理と言ってほしい。

ただ、京都のように大都市の割に大きな施設がなくて、中小施設が乱立している土地では、各施設がそのような臍繰りをいちいち確保していると、総計ではずいぶん無駄が大きいと思う。NICU認可病床は京都市内に私が認知している限り総計24床存在する(他に6床が工事中で休んでいる)。この24床が一つの施設にまとまって存在するとしたら、臍繰りも一施設分で済む。

この臍繰りを思い切って吐くことができるか、それはどれくらい他院を頼れるかということの裏返しなのだが、お互いに囲い込みを強化しあい始めたら、どうしたって臍繰りは死守しなければならなくなる。セーフティネットが機能不全な社会での経済活動の常だ。しかし明日からの当院のようにいよいよ立錐の余地すらなくなった場合に、それでも急に発生するNICU入院を近隣で受け止めていただけるなら、それなら臍繰りなどと貧乏くさいことを言わずに、手持ちのリソースをすべて空床として世間に解放できるかも知れない。

臍繰り云々の裏話はあれ、うちは小児外科も心臓血管外科もない、小児内科と眼科だけのNICUだが、とにかくぎりぎりまで空床を開けろというポリシーである。うちが空床を開けることで、近隣も堅い財布のひもが緩むかも知れない。とにかくあそこは開いているという安心感を、京都市内の周産期施設にはできるだけ持っていただきたいと願う。
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by yamakaw | 2010-03-18 19:09 | 日記

連載第1回の永劫回帰

定時で帰ろうかと思っていたら、医療安全の講習会で職員全員参加との放送が入ったので居残り。医療安全の講習会で居残った職員に残業手当を出すようになれば、うちの病院上層部の医療安全に関する覚悟についてちょこっとは見直しても良いと思ってるんだが。

システム工学の人が、カイゼンとかISOなんとかとかで医療の質を高める云々と語っていった。どっかで聞いたようなことばっかりだった。もう10年の上から同じ病院に勤めていると、同じような企画の講習会を延々聞き直させられることになる。

それはちょうど「ドラえもん」の連載第1回を延々と繰り返し読まされているような感覚だ。連載の2回目も3回目も、机の引き出しからドラえもんが初登場して、のび太の悲惨な将来と、それを改変する可能性について語る。なるほど次回からのび太の将来を変える活躍が読めるんだろうと期待したら、あろうことか次回もまたドラえもんが「初登場」してのび太の悲惨な将来とそれを改変する可能性について語るのだ。前回は青いドラえもん、今回は赤いドラえもん、次回はたぶん犬型のドラえもん、その次は四次元ポケットが背中についたドラえもん。繰り返し繰り返し。

おかしいなと思ってよく読むと、最終ページの枠外に「のび太の将来は変わるのだろうか。藤子不二雄先生の次回作にご期待ください。」とか書き込んであるんだ。講演後の担当者が挨拶して「今日はたいへんよい勉強になりました」云々と言うのはそういう意味だろ? 毎回飽きもせず。
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by yamakaw | 2010-03-17 23:40 | 日記

研修医とクラ儀礼

クラというのは太平洋の島嶼において、習慣的に交換される首飾りなんだそうだ。貝殻でできている。それ自体は何の役にも立たない(貨幣としての役割すらない)。内田樹先生がじょうずに要約してくださっている。というか私がクラのことを知ったのは内田先生のブログでなんだから、元ネタなんだよね。

クラ儀礼はソウラバという赤い貝の首飾りと、ムワリという白い貝の腕輪の交換である。
この装飾品にはまったく実用性がなく、他のいかなる品物とも交換することはできないので貨幣としての機能もない。
ただ、それぞれの装飾品には、それをかつて所有した人々についての伝承が「物語」として付随している。
これを長期間自分の手元にとどめておくことは許されず、次の交換相手へと手渡さねばならない。2種類の装飾品はクラの円環を、互いに反対方向に、とどまることなく回り続ける。ソウラバは時計回りに、ムワリは反時計回りに、2年から10年で島々を一周する。
クラ交易に参加できるのは男性だけで、参加資格を得るのは大きな名誉であり、「有名な」装飾品を手にしたものは、いっそう高い威信を手にする。
クラに参加したものは装飾品のやりとりをする相手として「クラ仲間」を有しており、「堅い契りの義兄弟」関係として生涯にわたって持続する。
クラ交易そのものは経済的交易ではない。
だが、クラの機会に、島々の特産品の交換が行われ、情報やゴシップがやりとりされ、同盟関係の確認も行われ、クラが必要とする遠洋航海のために造船技術、操船技術、海洋や気象にかんする知識、さらには儀礼の作法、政治的交渉のためのストラテジーなどを参加者たちは習得することを義務づけられる。
つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。

ピュシスの贈り物 (内田樹の研究室)

研修医ってのも各地のNICUのあいだで交換される首飾りみたいな存在なのかねと思った。何の役にも立たない、と言ってしまうのは研修医諸君に失礼だが、しかし役に立つからといって研修医を受け入れるのは詐欺だ。役に立てようとして受け入れるんなら研修医じゃなくて一人前のスタッフとして受け入れるべきなんだから。公式には、彼らは役に立たない者として受け入れられるべきなのだ。

研修医は各地のNICUをぐるぐるまわる間に、研修にまつわるたくさんの物語を身にまとっていく。どこでどういう症例に出会いこういう問題意識を持ったので次はこの施設へ行って誰それ先生の元でこういう手技を学びこういう研究を行い、云々。

研修医を交換する施設の側も、男性に限るかどうかは別としても、研修医の交換に参加できるのはおおきな名誉であるし、研修医を出す施設受け入れる施設の間ではあたかも「堅い契りの義兄弟」といった関係が形成される。そういう研修医の行き来がなされることで、「共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟」というかたちでの新生児業界全体の発展がなされる。まあ、研修医の交換ははたしかにクラ儀礼だねと思う。

であれば、人手が足りないから研修医を受け入れよう、というのは邪道ということになる。人手が足りないからという理由で研修医を入れていると、研修医を手放さなくなるからだ。つぎにいつ新しい人が来るかどうか分からないという不安も手伝って(研修医の労働力に依存するような貧困な施設には研修医なんて滅多に来やしない)、彼らが新しいステージに進むのを拒むようになる。具体的には、彼らに対して君はまだ未熟だからこの施設で学ぶことがたくさんあるという物語を語り続けることによって。さんざんこき使いながら、その仕事ぶり成長ぶりを過小評価し続けることによって。

しかし本来は、過小評価するも何も、研修医はもともとそれ自体に内在する価値はない存在なのだ。ゼロベースでやってきて、島あるいは研修施設での、持ち主あるいは指導者側による伝承を身にまとって、次の施設へ移っていく。ソウラバやムワリと同じく、価値が減損することはあり得ない。ソウラバやムワリと研修医とに違いがあるとすれば、ソウラバやムワリは入手した時点で「有名」であることが可能だが、研修医はたいていの場合において無名であるということだ。施設への評価は事後的になされる。あんな有名な新生児科医がかつてはあの施設で研修したんだというように、伝承は時間を遡って研修施設の「威信」を高めることになる。

話を2段落前に戻すと、過小評価され続けた研修医は、なんかこの施設でいつまで働いていても満足に成長している気がしない、と、研修施設を見限って、袂を分かつように外へ出て行く。ようするに、気前よく研修医を外へ出せない施設は、気前の悪さのゆえに研修施設としての格をみずから落としていく。

クラ儀礼と同じく、研修医も気前よくぐるぐると回さなければならない。宵越しに手元にとどめておきたがることは野暮なのだ。
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by yamakaw | 2010-03-13 18:22 | 医療関係あれこれ

判断に疲れる

日曜日の午前9時に、新生児搬送があるといって呼び出し。土曜からの当直明けの医師が超低出生体重児をつれて帰ってきた。それきり日曜はNICUですごし、かなり重症で帰るに帰れず泊まり込み、多少落ち着いたかなと思いながら月曜はすでに決まっていた当直で泊まり、火曜の午前中までNICUに居た。火曜の午後は聾学校へ行って気管切開の講義を2年ぶりに行って、質疑応答の雨あられを受けて帰宅。その後に他児の病状説明で夜にまた出勤。

こういうむちゃくちゃな日程で仕事するのは最近マンパワーが増えてからは久しぶりのことではあった。とくに体力仕事をしたわけでもなく、たとえば超低出生体重児の入院時処置(中心静脈確保とか)は若手が行ったし、私はひたすら指示出しばかりだった。おそらく船長とか艦長とか言われる人々はこういう仕事の仕方になるんだろうと思った。しかしひたすら判断を求められ続けながらNICUで52時間、その後に講義と質疑応答1時間ちょっと、それから病状説明で1時間弱。そうそう楽なことではなかった。

帰宅したらもう何もする気が起きなかった。飯と風呂をどっちにするかと妻に聞かれるのさえ物憂かった。もうすぐご飯は炊きあがる、風呂もバス乾燥の洗濯物をどけて沸かしなおせばよいのだけど、とか状況説明を受けても、どっちという選択をするのがつらかった。なんでこんな落ち込んでるんだろうと考えて、ああなるほど「判断」に疲れてるんだと気がついた。

でも同じことを俺らはNICUでやってるよねとも思った。超低出生体重児の入院受けで、今はリスク管理と称して人工呼吸の合併症とか偶発事故とか、カテーテル感染の危険とか抜去困難のリスクとか、一連の集中治療手技のことをお話ししろというのが公的なお達しだが、さてさて我が子が超低出生体重児として生まれただけでストレスフルなときに、人工呼吸には計画外抜管とか気胸とか起こりえますがよろしゅうございますかなどと聞かれて、聞かれた方としてはどうすりゃいいんだ? 人工呼吸を止めるというのはすなわちこの子を殺すということになる。選択肢としてはとりようがない。合併症の危険は承知しました、極力危険の無いようによろしくご高診くださいとしかもうしあげようがない。ストレスフルな状況にさらに判断のストレスをかけているのが問題の第一。しかも、選択肢がけっきょくあるようでない、医師が提示する模範解答と違うことを言えば医療ネグレクトと言われかねない、そういう「答えが質問側が想定した唯一の模範解答以外にあり得ない」質問ってのを無理矢理答えさせるのは、一種のハラスメントではないかと思う。それが問題の第2。

そういうことを現場に強いてそれがリスク管理か?君らが用意しろと言う新生児集中治療のさまざまな危険を書き並べた文書ってのはほんとうに現場からさまざまのトラブルを払拭するのに役に立つことなのか?と思ったりする。まあうちの上層部はいろいろ他に忙しいことがあるらしくてあんまりそういうことを言わないけど、他所の大きい施設でそういう書類が上層部から降ってきたり、あるいは自分でそういうのを作るのが好きな先生が居たりして、辺境から見てると、なんだかなあと思うんだ。

大変なときってのは飯と風呂とどっちが先?と聞かれるだけでも大変なのだよ。まだうちの妻は、自分が飯が先と思ってるときに亭主が風呂だと言い出してもなんだかんだ言わない人だからいいけど。

おおらかすぎるのも考えもので、「判断をさせてくれるなよ、判断って奴に疲れたんだ」と言ったら、「ふーん、でお風呂が先なの?」と問い返された。へなへな。
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by yamakaw | 2010-03-10 15:26 | 日記

上品さという美徳

「上品さ」を私は美徳のなかでもかなり上位にランク付けしている。

上品な人は、自分が受けている待遇はつねに標準以上のものだという前提で動く。だからことさらに要求する必要を感じておられない。自分の必要とすることをさらっと伝えてこられる。そして必要が満たされたら、標準以上の待遇がされたさいになされるような、丁寧な御礼を常にくださる。

そういう人に対しては、こちらも奮起せざるを得ない。というか、どんなに疲れていても、そういう人に相対してその疲れが増幅されることはないように思う。心理的にも体力的にもなんらの負担の上乗せなく、気がついてみると自分でも驚くほどの機嫌の良さ気前の良さで、めいっぱいなサービスをしている。

上品な人の態度をみていると、この人らは、我々が提供したサービスがどのようなものであろうと、自分に提供されたのならそれは標準以上のサービスなのだとお考えのようにさえ見受けられる。そのようにお考えであればこそ、彼らが受けるサービスがそのお考えの結果として標準以上になるという機転があるように思える。

読者諸賢には当然にご賢察賜れることと思うのだが、ここでいう丁寧な御礼とは金銭など物質的なものを伴うという意味ではなく、あくまで物腰や言葉使いに現れる態度としての御礼である。丁寧なお言葉をいただくほうが、床に投げられた小銭を拾わされるよりも遙かに嬉しいものではなかろうか。

上品でない人、当院ではめったにお目にかからないのであるが、土地によってはそういう人が主流を占めている場所もあるらしい。そういう人は、常に自分が標準以下の待遇しかなされないという前提で行動しているように見受けられる。だから何を提供されても、とりあえずそれ以上を要求してみる。「だめもと」と彼らは考えているようだ。そしてその「だめもと」が通らなかったときにはむろんのこと、通ったとしてさえも、自分がうけた待遇はそれでもあくまで標準以下のものであって、多少の改善は自助努力の結果だと思っておられるようで、標準以下の待遇を受けた人がその待遇に対してなさる程度の返礼をなさる。それ以上の礼は損だと思っておられるかのように。頭を下げるときに僧帽筋が使うグリコーゲンの分子がもったいないとでも言うかのように。

そういう人に接すると、どわーっと疲れる。最初の一言から自動的に防衛に入ってしまう。機嫌良さとか気前よさとかがまるで発動しない。とにかく瑕疵が無いように話をまとめてさっさと切り抜けようというマインドセットに入ってしまう。そうなってしまう自分側の心理の是非は是非でまた問題だが。

多分に上品でない人は、自覚的には、自分は目端が利くから人生の各場面でいろいろ得をしてるとお思いなのだろうと拝察する。しかし彼らは、上品な人が上品な故に受けている余録とはまったく縁がない。縁がないので気づきもしないから、知らぬが仏っつうことでいいのかもしれないが。逆に上品な人は、上品でない人が意識し努力して得ている以上の余録を、意図せず労せずにその上品さへの対価として受けている。上品な人が周囲に振りまく上品な幸福感の故に、それはまったく正当な対価だと私は思う。

そういう上品さは先天的なものなのか、後天的に身につけるものなのか、私にはわからない。でも診療していて、親御さんが常にそういう態度で人に接するところを見て育った子どもは幸福な一生を送るんだろうなと思わされるような、上品な親御さんが確かにある。そういう親御さんの子は幸福側に有意に偏った人生を送ることになるんだと思う。世の中って善意にあふれているよねとか思いながら、感謝する機会が多く、なおかつ機会ごとに感謝を忘れないような幸福な人生を送るんだろうなと思う。

逆な親御さんの子は、残念だが、残念な人生を送ることになるんじゃないかと思う。幸いなことに当地では滅多にお目にかからないけれども。かつて駆け出しの頃に救急外来にいて拝見した子の親御さんで、開口一番、おまえらじゃ頼りにならんから上級医を呼べと要求した父親があった。まず我々が診ることが決まりになっていますと答えたら、舌打ちして「ほな診いや」と顎をしゃくった。後にも先にも、文字通りに他人に顎で使われたのはそれきり経験がない。いまごろあの子も成人している頃合いだが、父親を見習って生きていたら、たぶんに今の世の中における「勝ち組」に入っているだろう。得る機会のある利得はすべて得るよう努力し、その大半を実現するような生き方をしているだろう。それで幸せならそれはそれでよかろう。しかし、ひょっとしてあの子が、どうして俺はこんなに順風満帆のはずなのに満たされないんだろうとか思っているとしたら、これは社会的格差のありかたの一つかもしれんと思う。昔の人は親の因果と言ったかもしれん。格差嫌いの内田樹先生なら、それを親による呪いと言うんだろうと思う。
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by yamakaw | 2010-03-06 14:59 | よのなか

零式艦上戦闘機

昨日の記事を読んで、我ながら頭悪そうな記事を書いたなと思った。直截すぎて芸がない。やれやれ。そこで挽回を図ってみる。

新潮選書 零式艦上戦闘機

清水 政彦 / 新潮社



表紙に「れいしき」とふりがなが振ってあったので、うっかりこっちが「ゼロ戦」と読んだら敵性用語だといって鬼の首を取ったように居丈高になる類の、面倒くさい著者なのかなと思った。読んでみたら、それほど思い込みの強そうな印象ではなかった。ただ、どこかで書評を読んでなるほどと思ったのだが、この著者はゲームを通じて零戦に親しんだ人ではないかという印象を、私も受けた。零戦の機体や機銃弾に関する考察が、いちいちシミュレーションくさい。そらまあ実機を飛ばして実弾を撃って実験するわけもいかんから仕方ないんだろうけど。

本書でなされた重要な指摘は2点だと思う。1点目は、ガダルカナル戦あたりまでは、現場で零戦を飛ばしていた面々はそれほど劣勢に立たされているような気はしてなかったんじゃないかということ。総計してみれば相当に戦力を失っていたんだが、一回一回の戦闘での損耗はそれほど大きくなかったので。

2点目は、昭和18年になるまで、日本は割の単位で勘定するのが適切なくらいの莫大な戦力損耗というのを経験していなかったということ。イギリスなどヨーロッパの連合国はドイツとの開戦直後にそのような巨大な戦力の損耗を経験していたし、アメリカも直接参戦はしていなかったにしてもその情報を得ていた。まあ対日戦も緒戦はぼろ負けだったしね。日本だけが、この時点に至るまでついに、ほんとうに厳しい戦争というものの経験がなかった。

戦争のたとえ話で医療を語るのはよろしくないとは言いながら、この分析には他人事の気がしない。今も私は日々淡々とNICU仕事をしているし、身の回りでそれほど困窮した状況を見聞きしているわけでもない。でも後になって振り返って集計してみれば、ああ俺がのんきにやってたあの頃も実は刻々と事態が深刻化していってたのだなと、悟らされてほぞを噛むことになりそうな気がする。それにもまして、いよいよ追い詰められて、損耗率の莫大さが目に見え始めて以降どういうことになるかなと。かつての軍部みたいに現代に幅をきかせている医療業界が、一気に崩壊するようなことになるのかなとも思う。

ちなみに、連合艦隊の最後の旗艦は「大淀」といった。艦名の由来は宮崎県の川らしいけどね。奈良県の地名じゃなくて。
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by yamakaw | 2010-03-05 19:55 | 読書

大淀の判決が出たので

大淀の事件に判決が出たとのこと。かつてコメントした身としてはなにか言及しておかねばならんと思う。

白状すれば最近はほとんど医療関係のブログは読んでいない。たぶん飽きたのだろうと思う。あんまり明るい気分にはなれないし、他所の暗い気分まで背負えるほどのゆとりはないし。かえって妻の方がいろいろと情報をあつめてくれていて、適宜ダイジェストしてくれている。さいきん何を読んでいるかについてはメディアマーカーにこまめに記録をするようにしているから適宜ご参照ください。



判決の内容については、大筋では最善のものだったのではないか。病院や医師の責任を問うものではなく、医療体制の充実を訴えている。裁判官としては訴えられている人以外に関してはそういう形でしか言及できないんじゃないかと理解している。

さいきん医療紛争にかんしてあまり酷い報道は見かけない。この事件の報道を巡る議論がされたころからではないかと思う。それとも私が見ざる聞かざるを決め込んでいるだけか?

毎日新聞をはじめとしたマスコミは奈良県南部から産科の医療事故を一掃するというおおきな仕事をした。むろん只ではなく、その代償として奈良県南部から産科医療そのものを一掃してしまうことになったわけだが。これはコストとベネフィットの関係で考察すれば多少コストが大きすぎたように思う。マスコミの報道の正体をさらけ出したという余録もついたが、それを勘定に入れても犠牲が大きかった。
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by yamakaw | 2010-03-04 19:01 | 医療関係あれこれ

世界の終わりに

「たとえ明日世界が終わるとしても今日りんごの木を植える」という言葉について。

明日世界が終わる場合に、今日なにをするべきか。むろん、よほど胆力の優れないかぎり、たいていは右往左往して時間を無駄にするうちに終末が来るんだろう。あるいは過去そのような予言が当った例しはないと否定して今日をいつも通りにすごすというやり方もあるんだろう。ときとしてそれは右往左往の一形態であることもあろうが。

この予言が確実に当るものとして、たとえば迫り来るメテオが肉眼で見えているのにホーリーを発動できる人がいそうにないとかして、それでもりんごの木を植えることが、称揚される態度なのだろうかと、ちょっと考えてみたりした。いや、一般的に言えばそういう派手な予言ってのはたいてい出所がいかがわしくて、実現する確率は極めて低いものだから、耳を貸さずにふだんの生活をするというのが最も賢い対策なのだと思うが、今回は予言の蓋然性は問わないこととして。

何故にリンゴの造園が称揚されるのか。たしかに、それは称揚されるべき態度だと、一見して思うのだが、根拠もと求められるとよく分からなくなる。絶体絶命の状況下にも平常心を失わない胆力の故にか。あるいは終末の絶対的予言をそれでも否定しきる意思力の故にか。しかしたとえば「たとえ明日世界が終わるとしても今日のぶんの筋トレをする」と言われると、なんか違うだろうそれ、と思ったりする。いやそういうことをしてる場合じゃないだろ、とか思う。会いたい人とかいないのかよ、とか。リンゴの木を植えるのはリンゴを収穫したり食べたりする人らのためになるが、筋トレはけっきょく自分のためにすることだからね。明日で終わる世界にそれでいいのか?

でも世界の終わる前日にも淡々と筋トレをするような人生ってのも、あながち否定されるべきものでもないかもしれない。明日世界が終わるからってとりたてて誰に会うとかなにをするとかいった懸案事項を抱えているわけでもなく、日々の鍛錬を続けていくのが最善であるという人生。それはそれで、シンプルで幸せなのかも。

でもまあ大抵の人生では、明日が世界の終わりとなれば、明日に世界が終わるからこそ敢えてやっておくべきことというのが段々に蓄積されているものじゃないかと思う。会っておきたい人があるだろうし、明日が終わりだからこそ話しておかなければならない事項もあるだろう。逆に言えば世界の終わりにでもないと会えないし話せないということだが、だれしもそういうことの一つ二つは心の底に抱えているものじゃないかと思う。

明日が世界の終わりであればこそ、そういう人に会い、そういう話をするという選択肢もあるだろう。そのために時間を使うなら、リンゴの木を植えたり筋トレをしたりするような回収できない投資に時間をつかう余地はないかもしれない。あるいは、あえてそう言うことは最後まで伏せておいて、淡々とリンゴの木を植えて終わるというのも選択肢かもしれない。それはそれで潔いと思う。どっちもありだよなと思う。

自分ならどうするかと言えば、因果な商売をしている立場としては、病状が難しくて在宅医療も困難で長期入院となっていた子らのうち、明日までなら何とかなりそうな子なら家に帰すべきなんじゃないかと思う。その準備で今日は暮れるかも知れない。うっかり退院させたら明日どころか今日さっそく危なくなりそうな子たちには退院は無理としても、両親に限っていた面会を兄弟その他にも許可して家族で過ごせるようにしなければなるまい。感染の持ち込みなど知ったことかと。

いや、たしかに医者ならそうしなければならないんだろうけど、明日で終わるのに今さら医者仕事に明け暮れるってのもどうかと思ったりする。今までなんだかんだとないがしろにしてきた家族と過ごすために、医者仕事など今日でおしまいにしても良いんじゃないかと思う。とは言っても今までないがしろにしてきたあいだに、たとえば娘など父と過ごすよりも優先したい友達とかできてないんだろうか。私ばかりその気になっても相手の都合というものもあろうし、その都合もこれまでの来し方で決まるのであって、自分の魂胆一つで自在にできるというものでもあるまい。けっきょくは自分の自由意思で決められる範囲は、たとえ世界の終わりの直前であっても従来どおりに狭いままで、意のままにならんなと医者仕事を淡々と続けることになるのだろう。傍から見たらそれはリンゴの木を植えているようにも見えるかも知れない。

とかなんとかだらだら書き付けた文章をハードディスクの中から発見したので公開。もう投稿してたかも。でもエキサイトの自ブログ内検索では見当たらなかった。
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by yamakaw | 2010-03-02 19:45 | よのなか