こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

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フィギュア王 聴診器に菌のマスコットはまずいでしょうね

フィギュア王 No.128 (ワールド・ムック 745) もやしもん 秋の菌祭り
/ ワールドフォトプレス
ISBN : 484652745X

愛読している「もやしもん」の特集であったとのことで、妻が買ってきた。こういう世界もあるのかと興味深く拝読した。

もやしもん特集は各種の菌のフィギュアを並べてあった。聴診器のマスコットにどうだろうと思って物色したが、いまひとつピンとこなかった。というか、やっぱ菌のマスコットを聴診器につけてるのってまずいでしょうよ。ときにかわいらしい人形などつけておられる先生があるが、ああいうものはどこから手に入るんだろう。

アスペルギルスって要するにコウジカビなんだねというのは「もやしもん」を読んで初めて知ったことである。

少女のフィギュアの写真もたくさん掲載されていた。近年芸術的価値が世に認められつつあると聞いてはいたが、なるほど妖しく美しいものだと思った。

色々と訳のわからない商品も掲載されていた。1体2万円のジャギのフィギュアなんて誰が買うんだろう。頭をすげ替えたらアミバにもなるというトキのフィギュアに至っては原作をリスペクトしてるんだか小馬鹿にしてるんだかわからない。
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by yamakaw | 2008-09-30 18:31 | 読書

後ろー!後ろー!!

中山成彬という人が陳腐な題材の失言を三連発して国交相を辞任した。題材に新味がなくても三連発で威力があった。ゴルゴ13で読んだ突撃銃の進化に、トリガー1回で3発の弾が出ますというのがあったが、やっぱり失言も進化して攻撃力を増すんだろう。

当直室でつけたテレビニュースにちょうど出たのだが、地元の県連の会長さんにちょっとは慎めと言われたその直後にまたも日教組云々と繰り返したこの人の芸風は、むかし客席のよいこのおともだちの「後ろ、後ろー!!」という絶叫にまったく耳を貸さなかった志村けんを彷彿とさせた。

こういう失言というのは意図してやるんだろうか、それともうっかりやるものなんだろうか。システム的な考慮が必要なヒューマンエラーなんだろうか。それとも、何かほかの重大なことから目をそらすなど隠された目的のことなんだろうか。あるいは、堅い仕事をじっくり勤め上げてきた初老の男性がとつぜん近所の大型ショッピングセンターで安物の鍋を万引きして捕まるという類のお話なんだろうか。

空床はゼロですが戦後教育のせいではありません。
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by yamakaw | 2008-09-29 22:13 | よのなか

「ハックルベリー・フィンの冒険」と裁判員制度のこと

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)
マーク トウェイン / / 岩波書店
ISBN : 4003231155
ハックルベリー・フィンの冒険 下  岩波文庫 赤 311-6
マーク トウェイン / / 岩波書店
ISBN : 4003231163
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子どもの頃からわりと読書は好きだったつもりだが、なにか読む気がしなくてハックルベリー・フィンのほうはしまいまで読んでいなかった。改めて読んでみたわけだが、いやこれは子どもの物語ではないですね。

物語の中で、ミシシッピー川の流域を渡り歩いていた詐欺師がついにその悪事が露見して、住民にリンチにされる場面がある。町じゅうの人が熱狂して、悪党二人の身体にタールを塗って鳥の羽根を突き刺し、ミシシッピー川へ放り込むべく担ぎ出してゆく。

英語のlynchという動詞は、単に法律にもとづかない制裁を加えるというのみならず、最後に殺してしまうというところまで含んだ語だと聞くので、この情景もじっさいにあり得た情景なのだろうと思う。

で、ここから先は私が勝手に思ったこと。彼の国の陪審制度というのは、けっして既存の裁判制度に住民参加を促すために成立したものではなく、実際のところはこういう熱狂的な暴徒と化しやすい住民を裁判制度から閉め出すために成立した制度なのではないかと、物語を読んで思った。何人までなら法廷に立ち会わせるからそれで納得して被告人を殺さず司法に引き渡してくれということで。

大野病院事件では控訴しなかったなあと、締め切りの日を迎えて安堵。
今日も二人の入院があったがそれでも空床は重症2/軽症2。
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by yamakaw | 2008-09-04 21:52 | 読書

大分県で採用不正を理由に20人の先生がやめさせられる

大分県で採用に関して不正があったとされる2008年度採用の教諭が20名ほど、解雇されることになったと報じられた。

世間に疎くてよくわからんのだが、採用試験を経て正式に雇用関係が成立したはずの人たちを、採用段階で採用側の内部処理に不備がありましたからと一方的に解雇することが可能なんだろうか。この人たちが生徒への体罰や性的虐待を常習的に行っていたとかならまだしも、現状でこのような解雇のしかたは法律的にOKな話なんだろうか。上級官庁はよく当事者に説明をした上でと言ってるようだが、はじめに解雇ありきで説明ってそれはインフォームド・コンセントとは言わんと思うが。それとも、私は自分の世間知らずぶりを改めて反省しなければならないのだろうか。まあ、法律の話は法律を知らない人間が知らないまま論じても不毛だし、よほど不合理ならモトケン先生のブログあたりに何か出るだろうと期待して、私は現段階ではこれ以上の素人法律論議は控えようと思う。疑問を感じますということだけは明言しておく。

心情的にはどうにも気の毒でやりきれない話である。まだなりたてとはいえ仮にも先生と呼ばれる立場の人に、まるで日雇い派遣みたいに明日からもう来なくていいからと一方的に言い渡すってのはどうなんだろう。先生ってその程度のものなのよと先生を束ねる教委自身が吹聴してよいものだろうか。ばれた分だけ切り捨てればいいのよとばかりその年度だけ切り捨て処分して、それ以前の年度はお構いなしとするのは、甘いんだか辛いんだか判然としない話のようにも思えるし。総じて、今回の処分には釈然としない。

採用過程での不正も、べつに受験者側が採用側にばれないような仕掛けをしたわけではない。むしろ受験者の与り知らぬところで受験者の身内と採用側とがたくらんだことである。それで受験者が割をくうのはどうにも不公平なような気がする。採用側で不正をしていた人たちのほうは、天網恢々疎にして漏らさず的に処罰を受けたのだろうか。そっちが先だろうと思うのだが。そっちが先だろうという常識を逆手にとって、若い人を処断することで身内への糾弾に幕を引こうという魂胆なのだろうか。それならずいぶん卑怯な話だ。すくなくとも、彼らに今回の処断を言い渡した人たちは、この若い人たちの人生をけつまずかせたのが自分たちの身内だという責任を意識した態度であっただろうか。子供たちを訓導する先生たちをさらに束ねる教委の人なら、その程度の高潔さは身から滲み出てしかるべきかと思うのだがどうだろうか。

今回の顛末ではどうしても解雇された若い先生たちの身になってしまう。今回の損得勘定は彼らにとって圧倒的にマイナスだった。自身が不正に関与していたわけでもあるまいに。こうして解雇されるくらいなら最初から雇用されなかったほうがその後の経歴に与える影響も少ないだろうに。地元では固いとされる、それこそ不正を働いてでも子を就職させたいほど人に羨ましがられる仕事についたのが一転して既卒の無職者だ。これから職を探すとしても、よい職があるんだろうか。職を探して歩く先々で、ああ採用試験の不正がばれて首になった元教諭かと後ろ指をさされかねないのではないか。

しかし今回解雇された人々にとってもっとも衝撃だったのは、実力で勝ち取ったと思っていた職業が実は不公正の結果であったという、その事実そのものであろうと思う。それを知らなかったのが自分だけという事実がさらに追い打ちをかけたと思う(あるいはそっちが本命か?)。周囲も自分をその程度にしか見ていなかった。就職に際してこれで一人前だと祝福してくれた人々が、陰では自分を半人前と思って不正な下駄を履かせていた。それを知らなかったのは自分ばかり。そういう、いかにも「庇護下にある半人前」の立ち位置に自分があったという事実を思い知らされたことこそが、最大の衝撃ではなかったかと思う。今回、採用取り消しを言い渡されて涙を流した人もあったと報じられ一部ではずいぶん貶されている。しかし同じ立場なら俺も泣くよなと思う(私の両親は私を同じ立場に立たせるような愚か者ではないが)。その涙は解雇に対する涙と言うこともあろうがそれはあくまで二次的なものだろう。まして、けっして、知らなかったから勘弁してくださいという甘ったれた心情から流れる涙ではないと思うのだ。

教委は希望があれば臨時採用で雇うとかなんとか人を小馬鹿にしたような恩着せがましいことを言っているが、いろんな意味で、この若い人たちは大分を出るべきではないかと思う。まずもって、この、教委に責任はないと言わんばかりの被害者面が気にくわない。まあ私が気にくわないからって関係ないかも知れないけれど。でもここで頭を下げて臨時採用で残ったとしても、結局はこの団塊の世代な連中に舐められたまま潰しの利かない年齢までいいように使われて捨てられるだけなんじゃないかと思う。

社会で生きてゆけば知らないうちに多くの人のおかげをこうむっているということに、いつか気がつくものではあろう。ああ自分一人でがんばっていたつもりが俺はまだまだ皆様のおかげでなんとかやっているのだなあと嘆息することは良くある話だと思う(それとも私だけですか?)。その嘆息が成長の糧なのだと思う。それはそうなのだが、しかし、今回のようにあまりにも根源的なところで不正かつ過剰な横やりが入る環境では、知らず知らずにスポイルされてしまう。全く変質してしまった人生を振り返って、これがあの頃の未来なのかと愕然とすることになろう。

それにまあ、そんな親やら恩人やらに取り巻かれた環境で歩き始めるのって息苦しくないですか?と思うのだ。私など小児科医修業を故郷の長崎で始める羽目にならなくて本当によかったと思っている。田舎はどこへ行っても何らかの情報網がつながっている。駆け出し時代の失敗がいちいち親や恩師や恩顧の人々に伝わったらと思うといてもたってもいられない。大手を振って故郷を離れることができただけでも、大学受験へ向けて猛勉強をした甲斐はあったと思う。あのまま親の息のかかるところで医者修業を始めていたとしたら、今の私は今以上にはんちくな人物であったことだろうと思えてぞっとする。

いやそれは私のような凡人に限ったことでもなかろう。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とほぼ同時代に偉人を3人も輩出しながらついに名古屋が都になれなかったのは、中島らも氏の指摘のように、彼ら偉人とて旧悪を知る人々の多い土地を嫌ったということの現れではないだろうか。海外に目を向けても、かのナザレの偉大な大工も、故郷ではろくろく奇跡を起こせなかったと福音書には伝えられている。ヨゼフのうちの私生児が何を言うとるかとか、長男坊のくせに正業に精を出さず新興宗教にはまりおってマリアさんが泣いとるぞとかいう視線に耐えられなかったに違いないと思う。

でもこの教委の指揮下にある教師たちって、世間の風当たりが強くなったからって若い同僚を無情に切り捨てるんだから、世間の風向きが変わったら教え子を戦場に送り込むんだろうな。

うだうだとそんなことを考えながら新生児搬送1件。
1件では空床は埋まらない。今日も重症2/軽症2.
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by yamakaw | 2008-09-02 22:24 | よのなか

早期からの経静脈的アミノ酸投与

超低出生体重児では、脳室内出血とか慢性肺疾患とか動脈管開存症とかいった合併症がそれほど重篤でなくても、なんとはなく体重増加が悪い。出生予定の時期に体重2500gを越えている子は珍しかった。それが普通だと以前は思っていた。子宮外では自分で呼吸し消化しなければならない。胎盤・臍帯という極めて高度の呼吸・栄養装置を切り離され未熟な肺と腸を未熟な脳がコントロールして自律しなければならない以上、ある程度の歩留まりは避けられないと思っていた。

解決策はコロンブスの卵的に簡単なところにあった。出生当日からの積極的な経静脈的アミノ酸投与である。胎内で臍帯経由で母体から入る潤沢な供給には及ばないにしても、せめて体組織を維持するために必要な1日体重kgあたり1gのアミノ酸を、出生後も絶やさず投与して飢餓期間を作らないようにするというやりかたである。

以前はブドウ糖液で輸液を開始し、日齢2から母乳投与開始、母乳が進まない子には生後1週間をめどに経静脈栄養開始が原則で、アミノ酸も早くても生後5日くらいからの投与となっていた。まだ尿量も出ない不安定な時期からアミノ酸を投与することが代謝に悪影響を与えるのではないかということが、早期からのアミノ酸投与をためらう理由であった。他施設には、糖などのカロリー源を十分に与えない状態でアミノ酸を与えても結局は熱源として消費されるばかりで身にならないと、早期からのアミノ酸投与をしかりつけるお年寄りもあったと聞きおよぶ。

しかし出生当日からアミノ酸を実際に与えてみても、以前に心配していたようなコントロールのつかない代謝性アシドーシスなど生じなかった。生後1週たって浮腫が抜けたあとも、昔のように小乗仏教の修行僧のようなひからびた痩せかたをすることはなくなった。そういう風にいったん痩せるのが当たり前と思っていたので、超低出生体重児たちがみずみずしいままに体重増加に転じることに驚かされた。

それより驚いたのは、その後の体重増加も改善したことだ。だいたいその日の体重の1~2%増加を目標とするのだが(体重800gの子なら1日体重増加が8ないし16g)、慢性期の栄養管理は以前と方針の変化はないのにぐりぐりと体重が増える。あたかも体重増加のモードが胎児期から変更なく続いているとでも言うかのように。これまで当然と思っていた超低出生体重児の緩慢な体重増加は、けっして必然的なものではなく、出生後に数日間の飢餓期間をおかれたために身体の栄養管理モードが変化した結果の、人為的なものだったようなのだ。

ようなのだ、というのは、生理的条件の超低出生体重児というものが原理的に存在し得ないため検証のしようがないのだ。健康上の問題がなければもともと子宮内に居た人々なのである。何らかの事情があって外へ出てきた人々であり、外へ出たということ自体が彼らに無視できない影響を与えている。その何らかの事情あるいは影響がどこまで不可避なものなのか。今の時点で不可避と思っているようなことがじつは避けられることなのではないか。健康モデルが想定できない状況でそれはどうやったら知ることができるだろう。

あるいは避けるべき事なのかどうか。こうして体重増加を維持することが、急激に発達中の脳を守ることにつながるのではないかというのが現在の新生児業界の主流的な考え方であるが、ひょっとしてこの子たちが成人して以降、いわゆるメタボリックシンドロームに悩まされることにはならないのか。多少肥満しても発達の良い方が幸せだろうという考え方を言う人もある。私もその意見にどちらかと言えば賛成なほうなのだが、しかし肥満ながら発達がよいぞ学校の成績も優秀だぞと言って過剰に働いたあげくに若くして心筋梗塞で過労死してしまうということになっては詰まらないと思う。畢竟詰まる詰まらないは一人だけで決まることじゃなくてその時の社会のあり方とかも影響するんだろうと思う。ただこの子らの一生に関して棺を覆って事を定めるとするなら、自分が現役の間には結論は出そうにもない。

こんな単純なことで、みたいな書き方になったけど、中心静脈栄養云々には出生体重500gとか600gとかの子にダブルルーメンで中心静脈が確保できての話なんだからそれなりに技術は必要なのだよ。臍静脈使うにしてもそうたやすいことじゃないし。私はできるだけ末梢静脈からPIカテーテルで確保する方針で居るのだが。腹臥位にしやすいし。

しかし、この方式が良いと分ってみると、これまでこの方式を用いなかった子たちには申し訳なく思う。その時々での最善を尽くしているつもりではいるのだが、進歩の速い分野ではその最善の具体的内容がどんどん変化する。2年前3年前の最善でNICU時期を過ごした2歳児3歳児を発達外来で健診させていただきながら、今ならどうしただろうと思うことはある。そう軽々しく試行錯誤のできる分野でもないんだから目新しいものにつぎつぎ飛びつくのも憚られるしと、この子らの時期に導入をためらったことに内心で言い訳をしてみる。仕方がなかったと思ってみる。思ってはみても、この子らの成長に手柄顔をする気分にはなれない。むしろこちらが救われる思いをさせていただいている。

俺が指導して発達が改善したのだと公然と語れる先生方がうらやましい。多少、いい気なものだと思わないでもない。

空床は重症2軽症2。ちょっと暇なので閑居にしてろくなことを考えない。
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by yamakaw | 2008-09-01 21:42 | 新生児