こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

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自閉症児の心電図をとる

 中学校の健康診断で怖がってパニックしたらしくて、心電図がとれませんでしたと連絡があった。NICUに名指しで電話してくるもんだからてっきり痙攣でもおこしたかと身構えた。そういう業務連絡は連絡帳にでも書いておいてくれよと思った。

 勤務先の機械を借りて取ることにした。紙に
「心電図
1.上着を脱ぎます
2.ベッドに寝ます
3.手足に4本つけます
4.胸に6本つけます
5.2分待ちます
6.はずしてもらいます 」
とプリントアウトした。ネットで拾ってきた心電図のイラストもつけた。「いつにする?」と聞いたら「土曜日」と言うので、「5月24日14時」と手書きで書き加えて、食卓の息子の目の前に貼り付けた。息子は見たくはないが外して捨てる度胸も無しというふうで、ちらちらと横目に見ていた。

それから数日間、ぶつぶつとこの手順を唱えていた様子だった。「I模型店に寄る」とか自分で付け加えていたらしい。当日は時間どおりにやってきて、処置室のストレッチャーに上着を脱いで寝た。電極は「自分で付ける」と言うので手足は付けさせた。胸部電極は決まった場所があるので私がつけた。記録中は妻の時計を目の前にもって秒読みをしていた。ぶるぶる震えるから筋電図が入る入る。それでもいちおう読めるだけの記録ができたので成功とした。

帰りにはI模型店に寄ったらしい。
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by yamakaw | 2007-05-28 21:36 | 自閉症

自己診断はあんまりよくないんでしょうね

息子が自閉症だということで、自閉症についてあれこれ勉強するにつけ、自分にも当てはまることがいろいろあるような気がしているわけですが。とくにコミュニケーションについては、周りのみんなが共有しているコミュニケーションに関わる感覚が自分には決定的に欠如しているような気が、以前からしていましたので。化学者のドルトンは全色盲だったと言いますが、化学者なりの分析力で、世の中の人には色彩感覚という自分には分からない知覚があるらしいと述べています。同様に、自分にもまた何らか欠落した感覚があるらしいと思っています。

なんだかんだで自分を自閉症スペクトラムのどこかにある人なんだろうなと思っているわけですが、自己診断ばかりで児童精神科の予約はとらずにおります。そもそも予約が一杯で割り込む余地がないのですが、もし仮に精神科受診の機会があるとしてもあんまり気が進みません。今さら正式な診断を得てなにか嬉しいかというと、ただの変人がお墨付きの変人になる程度でしかなさそうなので。正式な診断は頂かなくとも、NICUの看護師さんは継続処方するべき薬の一覧をメモに書いてくれるし、私の仕事に割り込むときは無闇に気を遣ってくれるし。

それに、まあ、医学生は新しい病気について学ぶたびに自分もその病気じゃないかと一度は疑うわけでして。夕方にくたびれたら重症筋無力症ではないかと思い、手が震えると思えばまた・・・。そういう愚かしい水準のお話なのかも知れません。

まあ、自分に当てはまるところがあるからと言って、息子が置かれた苦境を容易く理解できるなどと考えるような油断はしないようにしようと思ってます。

でも私みたいな人は多いんだろうなと思います。でなけりゃGTDがあんなに売れるわけがないと。あれは全くTEACCHで言う構造化の手法そのものではないかと思いますので。「しかし現在、私たちの多くにとって、自分のプロジェクトのほとんどには仕切りがありません。」(@デビッド・アレン「仕事を成し遂げる技術」はまの出版)ええと、これはショプラー先生の御言葉でしょうかそれともメジボフ先生でしょうか。仕事の終わりを明瞭にするってのは構造化の基本のきですよね。たしか。
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by yamakaw | 2007-05-21 16:36 | 自閉症

君らが自身のコミュニケーション嗜癖に自覚が無いだけじゃ?

先日の自閉症勉強会の質疑応答で聞いた、「自閉症の子どもはコミュニケーションしたくてたまらないんです。脳性麻痺の子が歩きたくてたまらないように、視覚障害の子が見たくてたまらないように、聴覚障害の子は聞きたくてたまらないように」という言葉にこだわり続けている。発言者は自施設で親御さんにそう言い聞かせては抱っこ指導をしてると自慢げに仰ったのだが。

定型発達の人らにはコミュニケーションそのものが強化子になる。コミュニケーションから何かが得られるからではなしに、コミュニケーション自体に、自己目的化するほどの喜びが得られるわけである。わけである、って訳知り顔に言っちゃうけど、多分そうなんだろうなと、高校時代に群れ集って弁当を食べる級友達を見て思ってたわけだ。私とてブログを書いてたりするわけだし、コミュニケーションに全く喜びが感じられない訳じゃないんだけれども、それは恐らく後天的に覚えた喜びだ。たぶん定型発達の彼らが感じているコミュニケーションの喜びってのは私が感じてるより深い、いわば次元の違うものなんだろうなと思う。多少の疎外感まじりに。20年経っても私は昼飯は1人で食っている。

定型発達の人らこそコミュニケーション嗜癖という特殊状態なんだよなと思う。まるで蛾が光に集まるように彼らはコミュニケーションに集まってくる。悪いことにはその嗜癖に自覚が無さ過ぎる。まるで酒飲みが下戸に酒を無理強いするように、コミュニケーションを無理強いしてくることがある。酒飲みはまだ自分が迷惑な存在だという自覚がどこかにあるかもしれないが、コミュニケーション嗜癖の人らは世間の大多数だから昂然としている。しかも、これが最大に困ったことなのだが、コミュニケーション嗜癖こそが人類の社会を今のように作り上げてきた基盤であり、その恩恵に与らずには私も生きていけないのである。
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by yamakaw | 2007-05-12 22:45 | 自閉症

ええと、私はいま抱っこ法の宣伝を聞いてるんでしょうか?

児童福祉センターで小児科医を集めて自閉症スペクトラムについて講義を聴いた。講師は児童福祉センター児童精神科の先生で、聴衆は小児科医有志。

かつて息子に自閉症の診断を受けたおりに、自閉症について親向けの講義を聴いた部屋だった。あれから10年近くたったのだなあと遠い目になったりするわけだが、講義の内容はあんまり変わってないような気もした。三つ組みとか構造化とか。いちばん最初の概論だしね。そうそうコロコロと変転されても困るし、この段階で知らないことが出てくるようではこの10年なにを勉強してたんだという話になりかねないし(いや新生児科をやってたんですよと言えば言えるんですけどもね)。

今度は小児科医として話を聞く。既に12年付き合ってる自閉症児が居るとはいえ、それは経験症例数としてはあくまで1例に過ぎないわけで、医師としての経験と言うには微々たるものだ。専門として自閉症の診療に当たるなどと身の程知らずなことは到底言えない。とはいえ、保育器の中から診ている子のフォロー過程で自閉症を疑わねばならなくなることも少なからずあるわけで、あるいは保育器の中から診ていた子が他所で自閉症だと言われたといって泣きながら私の外来にやってくるお母さんの相手も多々してきたわけで、勉強はしておかなければならない。

質疑応答では色々と考えさせられた。自分たちの仕事が京都でどの程度の位階にあると思っているか、その自覚的立ち位置が質問の言葉使いに明瞭に現れる。話者は無意識なんだろうけどもね。特定の有名施設の先生方がそろって、講義の内容をまるで無視して自説を述べ立てるのを聞いててそう思った。まるで自施設は児童福祉センターよりも位階が上だから指導してやろうとでも言うかのような言葉遣い。「うちで作業療法をやるとよくなるんですけど、どうしてでしょうかね」って、開口一番そんなこと聞かれても知るかよと私が講師ならいきなりぶち切れますが。ウイングの三つ組みとか認知心理学の知見とかについての講義の直後に「自閉症の子どもはコミュニケーションしたくてたまらないんです。脳性麻痺の子が歩きたくてたまらないように、視覚障害の子が見たくてたまらないように、聴覚障害の子は聞きたくてたまらないように」とか言われてもね、なに聞いてたんだよ今まで1時間以上、とか問いつめてやりたかったですね。小一時間くらい。果ては自施設で行っている抱っこ指導についてとうとうと述べられる。2週間かかる子もあるけどやりとげるんだそうだ。さすがに講師もたまりかねて、それは本人にとってみれば嫌で嫌でたまらん刺激をなんとか我慢できるようになったってだけだろうし、下手すると30歳になっても抱っこしないと落ち着かない自閉症者になるかもしれんよとやんわりと釘を刺す。ええと、私はいま有名な「抱っこ法」の宣伝を聞いてたんでしょうか。後学のためにそう聞いておけばよかったなと、すこし残念ではあった。
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by yamakaw | 2007-05-12 00:25 | 自閉症