こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

childdoc.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:読書( 90 )

居心地のよいNICUとは

部下は育てるな! 取り替えろ! ! Try Not to Develop Your Staff (光文社ペーパーバックス)

長野 慶太 / 光文社


アホな上司はこう追い込め! (光文社ペーパーバックス)

長野慶太 / 光文社



居心地のよいNICUとはどういうNICUか、とさいきん考えている。

内田樹先生の影響でもある。先生がくりかえし仰る、社会の変革をめざす集団ならその集団自体の内部にはすでに自らが実現しようとしている社会の形態が実現していなければならない、という指摘は正鵠を射るものだと私は思う。NICUは社会変革をめざす集団ではないが、しかし、赤ちゃんを含めた家族の新しい出発点となる場所ではある。家族がこれから闊達で幸せな家庭となるのなら、その出発点たるNICUのスタッフである我々もまた、幸せな、きもちよい仕事をしているはずなのだ。風通しの悪い抑圧的なNICUから送り出されても、そこから出発する新しい家族もまた風通しの悪い抑圧的な家庭にしかならないのではないだろうか。

しかし職場のいごこちを追求しようとしたときに、つい、疑似家族的な人間関係を求めてしまうというのが、よくある陥穽なのではないかと思う。とくに私の年齢層、そろそろ新人の年齢が自分自身よりも娘や息子のほうに近くなってきたあたりから、その傾向が顕著になるのではないかと思う。

疑似家族的な人間関係はNICUの人間関係としてあまりよろしくない。けっきょくNICUは家庭ではなく職場であって、しかも仕事の内容がかなり重大な帰結をもたらす職場であって、それなりに厳しくなければならない、という事情はある。それは言うまでもないことだ。加えて、私のようにあるていど年長になった人間が疑似家族の家長的な配役を演じ始めたら、若い人たちにはずいぶん抑圧的だろうと思う。大多数のスタッフにとって、それは居心地のよい職場を実現する道筋ではないのではないか。

半人前のこどもたちを育てて一人前にして世に送り出したり跡目を継がせたりするというのが、家族の物語であろう。疑似家族的な人間関係を職場に求める上司は、擬似的なこどもの位置に置いた部下を半人前扱いする。そして家長たる自分自身は、彼らを育てねばならないと変に意気込む。疑似家族の幻想に立脚した上から目線で。

だいいち家族においては、一人前になったこどもは出て行くか親を隠居させるかのどちらかである。部下に出て行かれて人手が足りなくなるのも隠居させられるのもきらう家長的上司は、構造的に部下を半人前扱いする。部下の客観的な能力には関係なしに、先験的に、彼の部下は半人前と決まっている。上司としては、自分は彼らを育てようと骨折っているのに、「近頃の若い者ときたら」いつまでたっても成長しない、ということになる。俺が育てて面倒見てやらんとこいつらは駄目だ、と彼は思っている。じつは彼らに去られて困るのは自分の方なのに。

しかしそもそも職場においては、構成員の誰一人として一人前以下の扱いを受けてはならない。一人前に扱われればこそ一人前の仕事をする、というのが働くものの本来のありかただと思う。ちなみに半人前に扱われるのに一人前の仕事を要求されるのは奴隷という。奴隷扱いされる職場がいごこちのよい職場であろうはずがない。というか、奴隷扱いされて居心地よくなるような変態はうちのNICUにはいらない。

奴隷は職場を去る自由もない。こどもに家庭を去る自由がないのと同じ。

前置きが長くなったが、そういうことをあれこれ考えてまとまらないでいるときに、この2冊を読んで深く感じ入った。疑似家族ではない、あくまでも職場の、人間関係はどうあるべきかということが論じてある。他の評でも言われていることだが、タイトルこそ扇情的であるものの、書いてある内容は真っ当である。おりにふれ、繰り返し読むべき本だと思った。だがさすがに、医局の本棚に置いておくのは憚られる。

しかしこの2冊を読んで我が意を得たりと思うのはかなり危険なことだ。この2冊の大前提として、読む立場の自分自身がそうとう厳しく自律していることが求められている。この2冊の内容を実践するにふさわしいほどの実力の人なら、むしろ、俺なんかがこんな実践やって大丈夫か?と常に疑っていることだろうと思う。逆に、自省なしにこの2冊をそのまんま鵜呑みにしてしまうようなレベルの人が、鵜呑み実践をやってしまうとかえってまずいんじゃないかと思ったりする。自分をも疑いながらおそるおそる実践するのが本書の正しい読み方ではないかと思う。少なくとも、私ごときには。
[PR]
by yamakaw | 2010-04-04 19:08 | 読書

子猫殺しのその後

「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ

坂東 眞砂子 / 双風舎



赤ちゃんの生き死ににふだん接している新生児科医として、というよりもむしろ、猫を多頭飼いしている「愛猫家」のひとりとして、関心をもってはいた。著者の、特定の猫には住みかを与え餌を与え、著者にとっては貴重なことらしい性交と出産もさせるのに、その結果生まれる子猫は即座に崖から投げ捨ててしまう、その非対称さが腑に落ちなかった。生命一般にたいして著者がとる態度が、自称しておられるほどに敬虔な態度といえるものなのか、私には疑問であった。むしろ、この非対称さ故に、私は著者が生命に対してひどく恣意的で不遜な態度をとっているように思われてならなかった。

話題の子猫殺しのトピックばかりではなく、連載のエッセイ全体を通読してみたら、それで初めて分かることもあろうかと思ったので、本書を京都市図書館から借りてきた。しかし、エッセイ自体の内容は「美味しんぼ」で山岡史郎君が述べていたようなことと大差がなかった。全体に、陳腐な論考だと思った。子猫殺しを持ち出す必然性を感じさせるような斬新さは感じられなかった。あえて子猫殺しに言及したのは、子犬殺し(じつは猫だけではなかったのだ)への反響に腹が立ったから、という以上の理由がないように思われた。

本書では、3人の論客との対談によって、このエッセイの新聞掲載時に受けた攻撃に対して反論している。しかしその反論も、私には、こどものけんかの水準を超えないように思われた。曰く、攻撃してくる面々も牛や豚を殺して食べてるじゃないか私が子猫を殺すのとどう違うのだと。あるいは、避妊することによって子猫の存在の可能性を絶つことも生まれてしまった子猫を殺すことも同じことだろうと。このような主張は、私には、見方によっては共通する点も無いとは言えない事項を持ち出して、部分的な類似点を無理に拡大して全部が同じ事だと言ってしまう、ひどく粗雑な議論のしかただと思えた。

反論の低水準さを別にしても、反論するということ自体が戦略的な誤りだと、私は思う。あのとき著者に対して集中的になされた攻撃は、著者自身の生命すら奪えと主張するような、極端で脅迫的なものであったからこそ社会的な問題とされるべきだったのではないか。であれば、著者がなすべきは脅迫の不当性を訴えることであろう。しかし著者が本書で行ったのは、必死になって子猫殺しの正当さを主張することであった。そうすることで、脅迫を反論に格上げしてしまった。愚かなことだ。私とて著者は脅迫にさらされるべきではないと思う。それはしかし、子猫殺しが正当な事かどうかとは関係がないことだ。
[PR]
by yamakaw | 2010-03-23 21:33 | 読書

零式艦上戦闘機

昨日の記事を読んで、我ながら頭悪そうな記事を書いたなと思った。直截すぎて芸がない。やれやれ。そこで挽回を図ってみる。

新潮選書 零式艦上戦闘機

清水 政彦 / 新潮社



表紙に「れいしき」とふりがなが振ってあったので、うっかりこっちが「ゼロ戦」と読んだら敵性用語だといって鬼の首を取ったように居丈高になる類の、面倒くさい著者なのかなと思った。読んでみたら、それほど思い込みの強そうな印象ではなかった。ただ、どこかで書評を読んでなるほどと思ったのだが、この著者はゲームを通じて零戦に親しんだ人ではないかという印象を、私も受けた。零戦の機体や機銃弾に関する考察が、いちいちシミュレーションくさい。そらまあ実機を飛ばして実弾を撃って実験するわけもいかんから仕方ないんだろうけど。

本書でなされた重要な指摘は2点だと思う。1点目は、ガダルカナル戦あたりまでは、現場で零戦を飛ばしていた面々はそれほど劣勢に立たされているような気はしてなかったんじゃないかということ。総計してみれば相当に戦力を失っていたんだが、一回一回の戦闘での損耗はそれほど大きくなかったので。

2点目は、昭和18年になるまで、日本は割の単位で勘定するのが適切なくらいの莫大な戦力損耗というのを経験していなかったということ。イギリスなどヨーロッパの連合国はドイツとの開戦直後にそのような巨大な戦力の損耗を経験していたし、アメリカも直接参戦はしていなかったにしてもその情報を得ていた。まあ対日戦も緒戦はぼろ負けだったしね。日本だけが、この時点に至るまでついに、ほんとうに厳しい戦争というものの経験がなかった。

戦争のたとえ話で医療を語るのはよろしくないとは言いながら、この分析には他人事の気がしない。今も私は日々淡々とNICU仕事をしているし、身の回りでそれほど困窮した状況を見聞きしているわけでもない。でも後になって振り返って集計してみれば、ああ俺がのんきにやってたあの頃も実は刻々と事態が深刻化していってたのだなと、悟らされてほぞを噛むことになりそうな気がする。それにもまして、いよいよ追い詰められて、損耗率の莫大さが目に見え始めて以降どういうことになるかなと。かつての軍部みたいに現代に幅をきかせている医療業界が、一気に崩壊するようなことになるのかなとも思う。

ちなみに、連合艦隊の最後の旗艦は「大淀」といった。艦名の由来は宮崎県の川らしいけどね。奈良県の地名じゃなくて。
[PR]
by yamakaw | 2010-03-05 19:55 | 読書

フーコー先生によると

フーコー入門 (ちくま新書)

中山 元 / 筑摩書房



本書を読んで氷解した疑問

1.MRSA対策とか動脈管開存症の診断治療とかで、大きな施設に自分たちはこうやってるってだけの根拠で偉そうな断言をされていちいちむかつかなければならないのはなぜか。

2.そうやってむかつきながらも表面上ははい仰るとおりでございますとへいこらさせられてしまうのはなぜか。

3.いい大人でプロフェッショナルなはずの我々が、夏休みのラジオ体操よろしく学会参加証のスタンプやらシールやら集めて専門医云々言って汲々しなければならないのはなぜか。

たぶん3にはマルクス先生も仰りたいことがあられると思う。
[PR]
by yamakaw | 2010-02-04 16:02 | 読書

中途半端な結末

のだめカンタービレ #23 (講談社コミックスキス)

二ノ宮 知子 / 講談社



中途半端な結末だなと思った。作者の体力が尽きたのだろうか。続編では軌道エレベーターを上がって宇宙へ出て活躍するんだろうと予感させる終わり方。「のだめLast Order」とかいうタイトルで。
[PR]
by yamakaw | 2009-11-29 18:55 | 読書

ワクチンなかった年月を何で計ればいいのだろう

ともに彷徨いてあり―カヌー犬・ガクの生涯

野田 知佑 / 文藝春秋



日本政府は犬の予防接種にはずいぶん熱心なんだなと思った。人間の子どもには接種してくれないくせに。
[PR]
by yamakaw | 2009-11-23 00:23 | 読書

副題変更 課長バカ一代

課長バカ一代 1 (1) (KCデラックス)

野中 英次 / 講談社

スコア:



NICU部長の肩書きを頂いてしばらく経つ。最初は「代行」とついていた。そう付いていてもいちおうみんな私の言うことは聞いてくれるし役職手当も頂けたので文句を言う筋合いでもないのだが、こんな場末のNICUがそんなたいそうなものかと多少思わないでもなかった。

ちなみにキミは管理職なんだから時間外手当は無しねと言われたら速攻で辞めるつもりだったのだが(月9回もタダで当直できるものか)、当直手当は出世して以降もきちんと頂いている。ありがたいことである。

さるさる日記であれこれ愚痴を書き始めた頃は下っ端だったのだが、なんだか出世してしまった。出世させてくれたついでに部下もつけてくれたらなお善いのだが、それは高望みというものかもしれない。病院の上の方でも求人は熱心にしてくれていることだし。ありがたいことに応募があったし。

それにしても我が身をつれつれ振り返るにつけ、こんな俺がNICU部長なんて名乗ってて京都の新生児医療はほんとうに大丈夫なのかと、まあ認可病床数や年間入院数としては京都でも大きい方のNICUであるだけに、多少危惧するところも無いわけではない。しかしそれは京都のみなさまに失礼なことではある。ということでせめてものお詫びにと、今後このブログでは愚痴はなるだけ封印することにする。武士は喰わねど高楊枝。寒い辛いを言わないのがさむらい。だから今後はあんまり寝てないとか忙しすぎるとか休みがないとかなるだけ言わないことになるけれど、それで小児科医療の現場が楽になったという根拠とは解釈しないでください。そんな誤解を生んだら別の方面にご迷惑ですから。

ということで今後の目標は本作の主人公八神和彦である。彼のように、常に平然と、自分を失わず、池上遼一の劇画の主人公みたいなきりっとした表情で(地がそんなに二枚目かはともかく)いたいものだと思う。たとえアホなことばっかりしていても。

部下がみんな休暇をとってしまってオフィスにひとり取り残されたクリスマスイブ、八神は課の業務が自分をとばして廻っていることに気付き、自らを振り返って「そうか、俺は何にもしてないんだな」とつぶやく。なんでそんな仕事をしない奴が課長なのかはともかくも、人間としてこんな境地にはそうそう至れるものではない。この男は本当にバカなのだろうか。そうとう大物なのではないか。

追記:前田仁さんのような優秀でツッコミ力のある部下を募集中です。
[PR]
by yamakaw | 2009-01-22 22:08 | 読書

エンデュアランス号漂流

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

アルフレッド ランシング / 新潮社



タフさについて考える読書の一環として。本書はさすがに外せない。しかしどうしたことか、本書について記事を書こうとするとエディタやファイアフォックスがフリーズしてなかなか投稿に至らない。なぜだろう。今日はうまくいくだろうか。

本書の主人公であるシャクルトンも、きわめてタフな人物であるが、けっしてクールではない。つまらん自説にこだわって貴重な資源を失ったりする。でも隊員たちはついていく。そして全員生還してしまう。

おそらく、けっして間違いをしないクールさにこだわると、この20世紀初頭の極地探検みたいな一寸先は闇の状況下ではやっていけないんだろうと思う。大事なのは間違ったとしてもタフに修正を繰り返し、結果として致命傷に至らず切り抜けることなのだろう。

エレファント島からサウスジョージア島への1300kmの航海は圧巻である。もちろんGPSなんてない時代だから、六分儀を用いて天測で自分の位置を計測する。その計測がずれていてサウスジョージア島を行き過ぎてしまったら、小さなボートには後戻りする術はない。自分たちも、遺された仲間も終わりである。そういう状況下で自分らの天測を頼りに進む心境というのはどういうものだろう。行き着けると信じる精神力はどこからくるものだろう。

サウスジョージア島に到着しても、島内の人の住む土地に至るには島を横断しなければならない。人跡未踏の高峰を、ろくな登山装備もなく横断することになる。自分ならサウスジョージア島の浜辺でへなへなと気力を失って座り込んでしまいそうな気がする。NICUで徹夜して超低出生体重児の初日管理を乗り切って朝が来たときに、もう一人いまから超未の緊急帝切をやるんでよろしくと言われたような心境。いや、そうやってもう一晩徹夜した夜明けに重度分娩時仮死の緊急新生児搬送の依頼が入ったような心境か。

「縄文人は太平洋を渡ったか」のジョン・ターク氏にしても、このシャクルトンにしても、タフさの本質というのは、そういう「ラスボス戦と思ってた戦いのあとのもう一戦」を戦えるかどうかなんだろう。その戦で重要なことは、正しい戦い方をすることではなく、とにかく戦い抜くことなのだろう。むろんそのもう一戦がほんとうのラスボス戦なのかどうかはわからない、という状況で、それでも戦い抜くことなんだろう。


以下余計な事ながら、シャクルトンたちは食糧が乏しくなると犬を殺してその肉を食い、犬の餌も人間が喰う。犬はまったく物資扱いである。それはそれでいいんだろうけど、それじゃあ日本の第一次南極越冬隊が犬を置き去りにせざるをえなかったときに世界中から受けたというヒステリックな非難はいったいなんだったんだと思う。紳士のために犬が犠牲になるのは当然だが猿が犬を犠牲にするのはバランスが悪いとでも言われていたのだろうかと、人種差別的な理不尽さを感じた。
[PR]
by yamakaw | 2008-12-03 18:28 | 読書

縄文人は太平洋を渡ったか ジョン・ターク著 青土社

縄文人は太平洋を渡ったか―カヤック3000マイル航海記
ジョン ターク / / 青土社
ISBN : 4791762568

米国ワシントン州の川辺から、9000年前のものと推定される人骨が出土した。顔を復元してみると縄文人そっくりであった。著者は、縄文人が北太平洋の海岸伝いに北米大陸まで渡ってきたのではないかと考え、自分でその航海を再現しようと試みた。1年目は両舷にアウトリガーのついた一人乗り帆船で、北海道を出発して千島列島沿いに北上しカムチャッカ半島に到達。2年目にはシーカヤックでカムチャッカ半島の東岸をさらに北上して、ベーリング海に浮かぶ米国領セントローレンス島へ到達する。

逃避のために読んでかえってタフさというテーマを考えさせられた本の一冊である。本書を読むと、十分なタフささえあれば、クールさとかクレバーさとかはそれほど重要ではないのかなと思わされる。著者はひどくタフだ。満足な地図もなく、その日の夕方にうまく上陸できる海岸があるかどうか分らないまま、海にこぎ出していく。その精神力だけでも大したものだと思う。潮流に流されて(オホーツク海と太平洋は深さから何から全然違う海なので千島列島の島の間には複雑な潮流が渦巻く)太平洋に流され、陸も見えないところからGPSを頼りに帆走して生還したりもする。千島列島は北半分は島が小さくなり間隔がひらく。南千島とちがって一日の航海では次の島へ着けない。彼らは同行の二人で互いの船をくくりつけ、30分おきに操船と睡眠を交代しながら3日間まったく陸の見えない航海を完遂する。そうして這々の体でたどり着いた小島には枯れ川しかなくて水が手に入らず、ロッククライミングで崖を登って小さな泉を見つける。延々この手の話が続く。十分なタフさがあればたいていの問題は乗り越えられるという教訓。いやもうそんな教訓レベルを超えている。神は十分タフな奴のみかたをする、というのが本書のテーマかも知れない。

著者はシーカヤックの単独航海でホーン岬をまわったお人だそうだ。実績のあるタフなお方だ。その著者曰く、こういう航海をするのは従来言われていたような、戦乱や飢餓に追われてやむなくといったプラグマティックな動機だけでは不可能だと。そうではない、心の底から沸き上がるような、やむにやまれぬ、半ば正気を疑われるようなロマンティシズムがなくてはこの手の航海は無理だと。なるほど。

しかし著者はクールでもクレバーでもない。とつぜん根室へやってきて日本の役人に「今から国後島へ渡りたいんだが」と言って通じると思っている。南千島の帰属をめぐる問題についてまったく調べもせずにやってきたらしい。やれやれな脳天気ぶりだが、交渉の末に条件つきで渡航を認めさせてしまう。クールさの欠如を補って余りあるタフさ。

しかしロシアに入ったら、ちょうど経済が崩壊していた時期で、行く先々の無法ぶりはクールな理屈の通用する状態ではない。けっきょくは、著者のようにタフなネゴでごり押しはんぶんに乗り切っていくのが、いちばんクールなやりかたでもあった。

ちょうどロシアの経済が崩壊していた時期であったとはいえ、著者が報告する北方領土の社会的荒廃ぶりはひどいものだ。インフラは崩壊し、民間人は大半が引き上げてしまって目につくのは軍人ばかり。残った住民は空き家の壁をはぎ取って薪にしている。持てあますんなら返せよと言いたくなる。おそらく、この悲惨な中に、日本の政治家が「ムネオハウス」をつぎつぎに建てて救世主になったんだろう。彼の路線で行ったら本当にこの土地は帰ってきたかも知らんなと思わされた。なんだって彼は失脚させられたんだったっけ? 彼の失脚で得られた成果といえば社民党の女性代議士が一発芸の才能を披露したくらいしか思いつかない。地元に帰れば彼女はヨシモトに再就職可能だと思う。「総理、総理、総理!」「あなたは疑惑の総合商社」云々、いろいろと使える台詞が耳に残る。最後に「今日はこれくらいにしといたるわ」で締めて引き上げるとなおよろしい。って、何の話だったっけ。
[PR]
by yamakaw | 2008-11-13 18:40 | 読書

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく (講談社文庫 あ 105-1)
ランス・アームストロング / / 講談社
ISBN : 406276086X

さいきん読むことが多いのは自転車の本と、辺境の本。とにかくどこかへ逃げ出したい一心の読書傾向である。それが皮肉にも、「タフさ」とは何か、という問題を考えさせられるような本によく行き当たるようになった。タフさを要求されないところへ逃げ出したいと思ってるようだけど、逃げ出す先として君があこがれるようなところは今以上にタフさを要求する場所だから勘違いしないようにねと、アマゾンドットコムに宿る神様が仰ってるんだろうと思う。

本書は自転車つながりの一冊。ランス・アームストロングはアメリカの人。自転車ロードレースのプロ選手で、将来を嘱望された若手時代に精巣腫瘍で闘病生活を余儀なくされたが、復活したうえツール・ド・フランス7連覇という偉業を成し遂げた人。もっとも本人は癌から生還したことのほうを名誉に思っているらしい。

まだ競技の部分の描写がぴんとくるほど自転車競技には詳しくないので、読んだときにも闘病記としての要素ばかりが目に付いた。

初診から手術までの迅速さはエレガント(「大学への数学」誌における用法で)のひとことに尽きたが、お粗末な医療保険はもうほとんど米国医療のお約束である。ちょうどチームの移籍時期で、彼は無保険状態だった。家屋敷も高級車も全部売り払って一文無しになるところを、スポンサー企業の社長が、銭を出さないとうちの社員の保険をぜんぶ引き上げるぞと保険会社に脅しをかけて、厳密には契約外の治療費をださせる。

とんだ横車である。保険会社だってこの横車をハイそうですかと押されて済ますわけもあるまい。誰かこの横車のとばっちりを引き受けた人があるはずである。うちの社員の保険をぜんぶ引き上げるぞと言ったところでハイそうですかとしか言われないような弱小企業の社長さんとか、マネジドケアで丸めてあるんだからこれ以上の治療費は払わないよといわれる病院とか。

抗癌剤のブレオマイシンを使わないという選択が良い。本書では医師がそう勧めたと記載してある。この薬の副作用で肺をいためると治癒後に競技へ復帰できなくなるからだそうだ。生存率が5%とか20%とか言ってる状況で競技への復帰云々もなかろうと思うのだが、そうやって具体的な目標をかかげることで、単純な死ぬか生きるかの二分法とは次元の違ったところへ意識を集中させることを狙ったのかもしれない。副作用のない抗癌剤としての「希望」の処方というところか。

それとも、これだけ予後の見込みが悪ければブレオマイシン1剤くらい加えても加えなくても大して違いはないという身も蓋もない事情だろうか。

抗癌剤の副作用を延々と堪え忍ぶつらい闘病生活を思えば、復帰後のレースがどれだけ過酷でも耐えきれたとのこと。そしてツール・ド・フランスで7連覇する。彼の活躍は癌の闘病生活をおくる患者たちに、とりわけ子供たちに大きな声援となっている。声ばかりではなく、彼はチャリティ活動に積極的に取り組んでいる。

ただ、その闘病生活を献身的に支えた恋人を、退院後にあっさり振ってしまう。生存するという目標は達成したが、次に何をすればいいかを見失ってしまい、かえって鬱状態になった模様。生存することより元の日常生活に復帰することのほうがよほど大変であるとのこと。なるほどそういうこともあるのかと医師としては勉強になった。

そこで癌の子供たちを応援するチャリティライドを始め、その活動で次の恋人と出会い、やがてその恋人の助けを得て選手生活に復帰する。本書は復帰後の彼がツール・ド・フランスで優勝するまでを扱ってある。彼の怒濤の7連覇はそれからの話。本書ではこの二人目の恋人と結婚して、凍結してあった精子で不妊治療して子どもも授かって熱愛いっぱいである。

だがネットで知った後日談によれば、この二人目の恋人ともその後に離婚しているらしい。おいおい。誰のおかげがあっての今の君だよ。こうなると勉強になったではすまない気がする。ひょっとしてこいつ単に女に汚いだけか?とまで、ちょっと思ったりして。あるいは、真面目な話、この男は恋人をロードレースチームのアシストと同列に扱ってないかと疑う。人生の各ステージでエースである彼の風よけとなり補給品を渡し周囲をかこって事故から守り云々と献身し、役目を果たしたら自身はレースを降りるアシストとして、恋人を扱ってるふうではないか。でもそれは幸せな人生か?人生ってそういうものか?なにか足りなくはないかランス君、と尋ねてみたくはある。
[PR]
by yamakaw | 2008-10-28 23:12 | 読書