こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

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カテゴリ:よのなか( 15 )

君にそんなことは言われたくない。

大人への道 (内田樹の研究室)

おっしゃることはいちいちごもっともであるが、ごもっともな内容でも語る人の属性によってはごもっともと首肯できないこともある。狭量だとか属人思考だとかとのお叱りはあるだろうが。


「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。


こういうことを、必要なものを若い世代からただで搾取することで調達してきた世代の人に言われると非常に腹が立つんだが、それは私が狭量だからだろうか。
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by yamakaw | 2010-04-23 19:56 | よのなか

上品さという美徳

「上品さ」を私は美徳のなかでもかなり上位にランク付けしている。

上品な人は、自分が受けている待遇はつねに標準以上のものだという前提で動く。だからことさらに要求する必要を感じておられない。自分の必要とすることをさらっと伝えてこられる。そして必要が満たされたら、標準以上の待遇がされたさいになされるような、丁寧な御礼を常にくださる。

そういう人に対しては、こちらも奮起せざるを得ない。というか、どんなに疲れていても、そういう人に相対してその疲れが増幅されることはないように思う。心理的にも体力的にもなんらの負担の上乗せなく、気がついてみると自分でも驚くほどの機嫌の良さ気前の良さで、めいっぱいなサービスをしている。

上品な人の態度をみていると、この人らは、我々が提供したサービスがどのようなものであろうと、自分に提供されたのならそれは標準以上のサービスなのだとお考えのようにさえ見受けられる。そのようにお考えであればこそ、彼らが受けるサービスがそのお考えの結果として標準以上になるという機転があるように思える。

読者諸賢には当然にご賢察賜れることと思うのだが、ここでいう丁寧な御礼とは金銭など物質的なものを伴うという意味ではなく、あくまで物腰や言葉使いに現れる態度としての御礼である。丁寧なお言葉をいただくほうが、床に投げられた小銭を拾わされるよりも遙かに嬉しいものではなかろうか。

上品でない人、当院ではめったにお目にかからないのであるが、土地によってはそういう人が主流を占めている場所もあるらしい。そういう人は、常に自分が標準以下の待遇しかなされないという前提で行動しているように見受けられる。だから何を提供されても、とりあえずそれ以上を要求してみる。「だめもと」と彼らは考えているようだ。そしてその「だめもと」が通らなかったときにはむろんのこと、通ったとしてさえも、自分がうけた待遇はそれでもあくまで標準以下のものであって、多少の改善は自助努力の結果だと思っておられるようで、標準以下の待遇を受けた人がその待遇に対してなさる程度の返礼をなさる。それ以上の礼は損だと思っておられるかのように。頭を下げるときに僧帽筋が使うグリコーゲンの分子がもったいないとでも言うかのように。

そういう人に接すると、どわーっと疲れる。最初の一言から自動的に防衛に入ってしまう。機嫌良さとか気前よさとかがまるで発動しない。とにかく瑕疵が無いように話をまとめてさっさと切り抜けようというマインドセットに入ってしまう。そうなってしまう自分側の心理の是非は是非でまた問題だが。

多分に上品でない人は、自覚的には、自分は目端が利くから人生の各場面でいろいろ得をしてるとお思いなのだろうと拝察する。しかし彼らは、上品な人が上品な故に受けている余録とはまったく縁がない。縁がないので気づきもしないから、知らぬが仏っつうことでいいのかもしれないが。逆に上品な人は、上品でない人が意識し努力して得ている以上の余録を、意図せず労せずにその上品さへの対価として受けている。上品な人が周囲に振りまく上品な幸福感の故に、それはまったく正当な対価だと私は思う。

そういう上品さは先天的なものなのか、後天的に身につけるものなのか、私にはわからない。でも診療していて、親御さんが常にそういう態度で人に接するところを見て育った子どもは幸福な一生を送るんだろうなと思わされるような、上品な親御さんが確かにある。そういう親御さんの子は幸福側に有意に偏った人生を送ることになるんだと思う。世の中って善意にあふれているよねとか思いながら、感謝する機会が多く、なおかつ機会ごとに感謝を忘れないような幸福な人生を送るんだろうなと思う。

逆な親御さんの子は、残念だが、残念な人生を送ることになるんじゃないかと思う。幸いなことに当地では滅多にお目にかからないけれども。かつて駆け出しの頃に救急外来にいて拝見した子の親御さんで、開口一番、おまえらじゃ頼りにならんから上級医を呼べと要求した父親があった。まず我々が診ることが決まりになっていますと答えたら、舌打ちして「ほな診いや」と顎をしゃくった。後にも先にも、文字通りに他人に顎で使われたのはそれきり経験がない。いまごろあの子も成人している頃合いだが、父親を見習って生きていたら、たぶんに今の世の中における「勝ち組」に入っているだろう。得る機会のある利得はすべて得るよう努力し、その大半を実現するような生き方をしているだろう。それで幸せならそれはそれでよかろう。しかし、ひょっとしてあの子が、どうして俺はこんなに順風満帆のはずなのに満たされないんだろうとか思っているとしたら、これは社会的格差のありかたの一つかもしれんと思う。昔の人は親の因果と言ったかもしれん。格差嫌いの内田樹先生なら、それを親による呪いと言うんだろうと思う。
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by yamakaw | 2010-03-06 14:59 | よのなか

世界の終わりに

「たとえ明日世界が終わるとしても今日りんごの木を植える」という言葉について。

明日世界が終わる場合に、今日なにをするべきか。むろん、よほど胆力の優れないかぎり、たいていは右往左往して時間を無駄にするうちに終末が来るんだろう。あるいは過去そのような予言が当った例しはないと否定して今日をいつも通りにすごすというやり方もあるんだろう。ときとしてそれは右往左往の一形態であることもあろうが。

この予言が確実に当るものとして、たとえば迫り来るメテオが肉眼で見えているのにホーリーを発動できる人がいそうにないとかして、それでもりんごの木を植えることが、称揚される態度なのだろうかと、ちょっと考えてみたりした。いや、一般的に言えばそういう派手な予言ってのはたいてい出所がいかがわしくて、実現する確率は極めて低いものだから、耳を貸さずにふだんの生活をするというのが最も賢い対策なのだと思うが、今回は予言の蓋然性は問わないこととして。

何故にリンゴの造園が称揚されるのか。たしかに、それは称揚されるべき態度だと、一見して思うのだが、根拠もと求められるとよく分からなくなる。絶体絶命の状況下にも平常心を失わない胆力の故にか。あるいは終末の絶対的予言をそれでも否定しきる意思力の故にか。しかしたとえば「たとえ明日世界が終わるとしても今日のぶんの筋トレをする」と言われると、なんか違うだろうそれ、と思ったりする。いやそういうことをしてる場合じゃないだろ、とか思う。会いたい人とかいないのかよ、とか。リンゴの木を植えるのはリンゴを収穫したり食べたりする人らのためになるが、筋トレはけっきょく自分のためにすることだからね。明日で終わる世界にそれでいいのか?

でも世界の終わる前日にも淡々と筋トレをするような人生ってのも、あながち否定されるべきものでもないかもしれない。明日世界が終わるからってとりたてて誰に会うとかなにをするとかいった懸案事項を抱えているわけでもなく、日々の鍛錬を続けていくのが最善であるという人生。それはそれで、シンプルで幸せなのかも。

でもまあ大抵の人生では、明日が世界の終わりとなれば、明日に世界が終わるからこそ敢えてやっておくべきことというのが段々に蓄積されているものじゃないかと思う。会っておきたい人があるだろうし、明日が終わりだからこそ話しておかなければならない事項もあるだろう。逆に言えば世界の終わりにでもないと会えないし話せないということだが、だれしもそういうことの一つ二つは心の底に抱えているものじゃないかと思う。

明日が世界の終わりであればこそ、そういう人に会い、そういう話をするという選択肢もあるだろう。そのために時間を使うなら、リンゴの木を植えたり筋トレをしたりするような回収できない投資に時間をつかう余地はないかもしれない。あるいは、あえてそう言うことは最後まで伏せておいて、淡々とリンゴの木を植えて終わるというのも選択肢かもしれない。それはそれで潔いと思う。どっちもありだよなと思う。

自分ならどうするかと言えば、因果な商売をしている立場としては、病状が難しくて在宅医療も困難で長期入院となっていた子らのうち、明日までなら何とかなりそうな子なら家に帰すべきなんじゃないかと思う。その準備で今日は暮れるかも知れない。うっかり退院させたら明日どころか今日さっそく危なくなりそうな子たちには退院は無理としても、両親に限っていた面会を兄弟その他にも許可して家族で過ごせるようにしなければなるまい。感染の持ち込みなど知ったことかと。

いや、たしかに医者ならそうしなければならないんだろうけど、明日で終わるのに今さら医者仕事に明け暮れるってのもどうかと思ったりする。今までなんだかんだとないがしろにしてきた家族と過ごすために、医者仕事など今日でおしまいにしても良いんじゃないかと思う。とは言っても今までないがしろにしてきたあいだに、たとえば娘など父と過ごすよりも優先したい友達とかできてないんだろうか。私ばかりその気になっても相手の都合というものもあろうし、その都合もこれまでの来し方で決まるのであって、自分の魂胆一つで自在にできるというものでもあるまい。けっきょくは自分の自由意思で決められる範囲は、たとえ世界の終わりの直前であっても従来どおりに狭いままで、意のままにならんなと医者仕事を淡々と続けることになるのだろう。傍から見たらそれはリンゴの木を植えているようにも見えるかも知れない。

とかなんとかだらだら書き付けた文章をハードディスクの中から発見したので公開。もう投稿してたかも。でもエキサイトの自ブログ内検索では見当たらなかった。
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by yamakaw | 2010-03-02 19:45 | よのなか

乏しいリソースを分配する

「発展」と「アフリカ」 - 過ぎ去ろうとしない過去

この秋から冬にかけてのインフルエンザワクチン接種で、医薬品が足りないという状況を経験した。金を出しても正当性を訴えても医薬品が手に入らないというのは初めての経験だった(神戸の震災の時も同じような状況があったのだろうが遺憾ながら記憶にない)。

リソースが足りない状況での人間の行動というのは浅ましいものだとつくづく思った。それでも私の患者さんは、お子さんは現状でワクチンの優先枠に入るほどの重症ではありませんと申し上げたら聞き入れてくださる方ばかりで、ありがたいことだった。しかし目を外に転じれば、昔の人はこういう状況を餓鬼道にたとえたのではなかろうかとさえ思える言動に接することも再々で、いろいろと考えさせられた。

ワクチンひとつ足りないだけでこれだよという記憶の新しい身で、トラックバック先のアフリカのこと(さらにその言及先のエントリまで)を拝読したのだが、やっぱり腹のふくれた人間は腹の減った人間のお作法についてあんまり居丈高なことを言っちゃいけないなと思った。腹のふくれた人間自身、いざ腹が減ったのに食料が手に入らないという状況になってみれば、どういう行動に出るか知れたものではない。と、今回の新型インフルエンザワクチン配給と接種の過程で学んだ。

以下蛇足ながら
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by yamakaw | 2010-02-09 19:19 | よのなか

草食系男子という概念には自然科学的な妥当性があるんだろうか

草食系男子なる概念について書かれた書籍を読んで、妻と娘が、これってお父さんのことだよねと言って笑っていた。

私の個人的評価に関しては局所的な話だからまあどうでもいいとして、いったいこの草食系男子なる比喩表現を用いた人々の中に、草食獣というのがどれほど獰猛で扱いにくいものかご存じな人っているんだろうかと思った。草原でおとなしく草を喰ってる従順で無害なやつらと思っておられるのなら、かなり科学的事実とは異なるんじゃないかと思うのだが。どうだろうか。

なにさま、世界にいま飼われている家畜には、みごとに、アフリカ原産ってのが居ないでしょうよ、と、娘相手にジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の受け売りをしてみる。どうやっても飼い慣らせなかったってことなんだからね、と。父親をどう思うかに関しては、まあそれなりに相手してくれてればいいと思ってるけど、自然科学的な観測にもとづかない空想上の比喩を使うような言説のありかたを見習ってもらっては、いちおう理系のつもりの父としては心外なのだ。
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by yamakaw | 2010-02-07 19:28 | よのなか

朝青龍引退

かねてよりファンの末席に連なってきた者として、朝青龍の引退は衝撃であった。力士の力はただ事ではないから、力士ではない者への暴力沙汰というのはいかにも致命的で、さすがに引退は仕方ないかなとは思う。ただその事実関係の経緯については詳細不明にて何とも。かの第60代横綱双羽黒の引退の騒ぎも、今にして振り返れば双羽黒側にずいぶん不当な経緯だったと聞くし。

けっきょく本人も師匠も周囲も彼の強さを扱いかねていたんだろうと思う。人智を超えて神から授かったとしか思えないような理不尽な強さであった。ただ強いと言うだけで横綱になった、たいへんシンプルな横綱であったと思う。今後も、史上最強の横綱は誰という話題になったら、かならず彼の名前が挙がると思う。

そのシンプルさ故に私は朝青龍が好きだった。弱いんだけど頑張ってますみたいな判官贔屓の必要な強さではなく、本当に彼は強かった。白鵬もかわいそうに、これからいくら頑張っても、ここに朝青龍が居ればという呪詛から逃れることはできない。居ない人は倒せない。

ただその強さを誰も(本人すら)コントロール下に置けなかった。それをコントロールしようと口喧しかった人の職業が脚本家だったというのもなにか象徴的な話だったと思う。彼女は自分の脚本みたいに彼を操りたかったんだと思う。ただ彼女には気の毒だが、彼女が脚本を書いたドラマに、朝青龍が活躍した大相撲ほどにおもしろい作品をひとつも思い出せない。たぶん彼女はその作品に寄らず、朝青龍の天敵として、後世の記憶に残るんだろうと思う。

それをコントロールしようとして、土俵での仕草がどうだとか左利きなのがどうだとかいったあれこれの、およそ大人が大人に対して言うこととは思えないハラスメント的なご指導が幾たびもなされた。それは朝青龍が他の意見に耳を貸さないことに言い訳するネタを与える以上の意義を持たなかった。逆に、彼が再々に渡って稽古場でライバルを負傷させてきたとする醜聞に誰か何か言ったか?と問いたい。何か言うならそこに言えよと思う。それを指導できない相撲界には指導できないだけの事情があるんだろうけれど。いったい大相撲の歴史を振り返って、朝青龍に石を投げて追放できるほど美しいありかたであったか?

なにさま、神が与える力士の強さすらコントロールのもとに置きたがる性根が、ひどく嫌らしいものに思える。人智を超えたものにたいする畏敬の念のなさ。まさにそれを象徴したのが、朝青龍の優勝をまぐれと断じた、かの女性脚本家の態度であった。自分に理解可能な範囲を超えたことを矮小化して片付けようとする態度。いったい国技に対する敬意があるのかと彼女にこそ問うてみたかった。

一頃盛んであった医療バッシングにも通じるものを感じて、朝青龍の攻撃され方には他人事ではないものを感じる。死こそまさにコントロール下に置けないものの代表なのだと思うが、それすらを尊厳死とか何とか言ってコントロールしようとし、予期しない死には医師の訴追を持って報いる、その同じ考え方が朝青龍の強さを許容しなかったのだと思う。




がんばれ朝青龍
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by yamakaw | 2010-02-07 14:17 | よのなか

駅伝と自転車ロードレース

新春なので病棟では入院患者さん達が駅伝を観ている。

駅伝は残酷なスポーツだと思う。またその残酷さがいかにも日本的なスポーツだと思う。チームの命運を一人に背負わせて走らせるのに、周囲がするのは声援ばかり。実のある援助がないので、選手は孤軍奮闘を強いられる。一人が下手をうつとチームごとリタイヤすることになるから冒険的な戦略も取れない。堅実に、まじめに、耐えて走ることが美徳とされる。失速した選手は落伍者扱いである。彼らのことを語る報道の上から目線ぶりは観ていて痛い。痛くてこの数年ほど駅伝はまともに観られない。

昔はスポーツって一般にそんなものなんだろうとしか思わなかったが(だから体育会系って付き合ってられないんだよねとも思っていたが)、自転車のロードレースを見始めると、こんな考え方をする種目もあったのかと瞠目した。ロードレースではチームが一体となってエースを勝たせようと協力する。エースの前を走って風よけになり、飲み物や食べ物を運び、寒いときの上着を運び、万が一にも接触事故などでエースがこけないように周囲をかためて保護し、云々。チームの命運のかかったエースならみんなで勝たせようじゃないかと、合理的かつプラグマチックなチームプレーが行われる。

まあ昨年のツールでのアスタナみたいな例外はあるかもしれんが、一般的にはそういうものだ。

たとえばレースの序盤でエースの風よけのために前を走り続けて体力を使い果たした選手が後にリタイアしても、それは単に彼が自分の責任をはたしたということにすぎず、彼が未熟だとかいう話にはならない。彼がアシストしたエースが最終的に勝利すれば、その栄誉はアシストした選手にも共有される。リタイアしたからと言って彼に後ろ指をさそうという発想は観るがわにもない。

であればこそ、戦略として序盤にあえて先走って「逃げ集団」を形成するという戦略も取り得る。実力を考えればゴールまでのどこかでメイン集団に追いつかれ追い抜かれることは確実な、いっけん無謀な独走であっても、彼がそうして独走することでチームの戦略にも寄与することができる(らしい。いまひとつ、逃げがチームに具体的にどう寄与するのか私にはピンと来ないのですみません)。少なくとも逃げ集団はテレビ中継によく映るのでスポンサーは大喜びするし、逃げた彼らが最終的にメイン集団に追い抜かれ、力尽き果ててリタイアしたところで、チームが負けることにはならない。

そういう駅伝と自転車ロードレースの精神風土の違いが、そのまま、彼我の風土の違いにもなっているような気がする。先走りも異端も許されず、かといって実質的な応援もあるわけではない孤軍奮闘を強いられ、失速やリタイアはそのまま周辺を巻き込んでの破滅となり二度と浮かび上がれない日本。向こうではどうなのか日本を出たことがない私にはよく分からないけれど、日本で駅伝が精神性の塊みたいに称揚されるのと同じようなありかたで、自転車ロードレースの精神が社会の精神のあり方を象徴しているのだとしたら、向こうでは才覚ある個人の独走をあたたかく見守る雰囲気があるんだろうと思う。その独走が最終的に潰えても、次のレースではまた走ることが許されるんだろうと思う。エース級の人の奮闘にはチームが惜しみなくアシストする雰囲気があるんだろうし、アシストの人たちも自己の犠牲をそれほど自己憐憫することはないんだろうと思う。そうしてアシストされて勝つエースもいたずらに高ぶったり卑下したりすることなく、シンプルに勝利を喜びアシストに感謝するんだろうと思う。行ったこともない社会を理想化しすぎだろうか。

さいきん日本の男子マラソンが世界の水準に追いついていかないのは駅伝という競技が悪いんだとは聞いたことがある。どんどんスピード重視になっていく世界の潮流のなかでは、確実さを極端に重視する駅伝の選手育成方法では世界で勝てる選手は育たないんだそうだ。それは陸上競技に限ったことか?と問うてみたい気はする。
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by yamakaw | 2010-01-02 17:45 | よのなか

あらかじめ「ゆとり」と呼ばれる人々

当直明けに例によって当直室で昼飯を食べていたら、テレビで新卒大学生の就職難について語っていた。ちょうど「ゆとり教育」で育った人たちが新卒大学生として社会に出ようとしている、まさにそのときに就職難が重なってしまったとのこと。

就職難も外在的な要因ばかりではなく、ゆとり教育世代ゆえの内在的な原因もあるとの教育評論家のコメントもあった。いわく、彼らは自分がどうしたらいいか分からないんじゃないかと。これまで大人の意向に逆らわずに生きてきた故にと。

この新卒の人たちも気の毒だと思う。社会に出ようとしたその時点で既に、彼らは「ゆとり教育世代」として語られている。本人の具体的な能力や意思以前に、「ゆとり」というラベルで世代ごと一括されてしまっている模様。スタート時点で自分の責任ではないビハインドを負わされている。なんだかこれは新たな差別なんじゃないかとさえ思う。しかも彼らのゆとり教育と併行して行われた経済政策の結果がいまの不況と財政難だ。

就職難の対策は景気回復とワンセットだろうし、いまの状況で十分な対策が可能だとはなかなか思えないけれど、でもその言い訳に「彼らはゆとりだから」と言われそうに思える。就職難は社会的にも憂慮するべき事態だとは分かってますけど、それ以前にこの世代は使えないから雇わないんです、云々。たとえそのような偏見をはねのけて就職できたとしても、古来から新人は失敗を重ねて成長するものなのに、その失敗すらも「ゆとり」故のこととされて、指導不十分なまま早々に諦められるんじゃないかと思う。その結果、見放されて挫折から回復できないまま早々に職を離れる若者が多発するんじゃないかと危惧する。それもまた「また我慢のきかない根性無しのゆとりが逃げ出しやがる」「仕事はそういうものではない」「不毛な自分探しをしおって」云々と語られるんだろうと思う。

そんな正義感に満ちあふれたことを書く私も、テレビの特集に出ていた若者の顔を見てると、なんだかこいつら使えそうにないなという印象を受けてしまって、あまり偏見から自由ではないなとの自覚はある。今はまだ医学部生であろうゆとり教育世代の皆様には、新生児科ではそういうことは言わず丁寧に指導するからぜひ新生児科に来てくださいね。と多少棒読み気味に付け加えて本稿はおしまい。
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by yamakaw | 2009-12-07 19:19 | よのなか

東京オリンピックが無くなって

東京でのオリンピック開催がなくなったとのこと。

石原都知事に言わせれば、プレゼンでは勝ってたのにと、ウラでなにか不当な権謀術数が渦巻いたかのような口ぶりであったが、プレゼンがそこまで大事だなんて誰が彼に吹き込んだものやら。そういうことを言って都の予算から多額の宣伝工作費を巻き上げていったプレゼン屋さんたちだろうか。

ものごとには、プレゼンみたいな方法論を越えた、大義ってものが要るんじゃないかと思う。南米大陸に初の五輪をと言われたら、そうだよね日本で2回目っつうよりも南米で初のほうが開催しがいがあるよねと、日本でも肯く人が多いんじゃないかと思う。それは大義とも言えるレベルの説得力だと思う。プレゼンの芸だけでひっくり返そうってのはきつい。たぶん、裕次郎の兄ですって言っても、説得力の上乗せにはならない。

まして、これまでさんざん排斥的な言辞を繰り返してきた彼が、いまさら国外からの好意を得ようったって、それはさらにきつい話だと思う。けっきょくこれまでの彼の言動は大規模な内輪受けの連続だったので、今回はじめて彼は内輪の外に出たってことだろう。あの年で引退前になって「みのほど」を知らされることになるってのも辛いもんだろうけどね。
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by yamakaw | 2009-10-05 00:23 | よのなか

究極召喚内閣

こんどの政権交代をいろいろな人がいろいろに言っているようだが、私には「究極召喚内閣」(@FFX)と評したら腑に落ちる感がある。よのなかを救うためには政権交代だか究極召喚だかしか無いとみんなで信じて、じっさいにそれを使って旧来の害悪たる「シン」を倒してみて、いくばくかのナギ節は訪れたけれど、そのうちに使った究極召喚にエボンジュが乗り移って新たなシンとして復活してしまう。

いまはナギ節。あくまでも。永遠に続くかどうかはわからない。


・・・とか書いて投稿して、おもむろに「究極召喚」で過去の記事を検索したらこのネタ一回使ってた。陳腐さは世間も私も変わりないようだ。
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by yamakaw | 2009-09-19 13:58 | よのなか