こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか
2017-05-23T18:21:52+09:00
yamakaw
NICU勤務医・自閉症児の父
Excite Blog
wordpressへの移行
http://childdoc.exblog.jp/23904658/
2017-05-23T18:21:00+09:00
2017-05-23T18:21:52+09:00
2017-05-23T18:21:52+09:00
yamakaw
未分類
Wordpressへはこちらのブログに書いた内容も、本編だけですが移行できました。こちらにいただいたコメントを移行できなかったことが残念です。といいますかこちらでもコメント消えてませんか?それがとても残念です。
WordPressは有料サイトなんだからエキサイトブログ有料化で他所へ行った私が利用を開始するのもおかしな話と思います。これはまったく私の不徳の至りです。
WordPressはこちら。
https://childdocblog.com/
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お世話になりました。
http://childdoc.exblog.jp/10900575/
2010-06-30T21:58:00+09:00
2010-06-30T22:36:03+09:00
2010-06-30T21:58:25+09:00
yamakaw
運営方針
はてなに引っ越すことにしました。地元企業だし。自転車好きだし。ときどきご迷惑かけてるし。
exciteさまにはお世話になりました。感謝しています。時節柄、収益を求めるのはやむを得ないことと思います。先立つものがないと世を渡っていけないのは承知しているつもりです。ただ、老婆心ながら、今回の方針変更は御社の収益という面からもほんとうに正しい選択であったのか、疑問とするところです。なにはともあれ、御社の今後のますますのご発展を祈念いたします。
新しいサイトはこちらになります。皆様には、今後ともよろしくお願い申し上げます。
こどものおいしゃさん日記 http://d.hatena.ne.jp/yamakaw+childdoc/
ではなくてこちら http://d.hatena.ne.jp/childdoc/
追記:はてなのほうでサブアカウントを使ったら、すこしシンプルなURLで登録できそうな様子なので、当初掲げたURLから設定を変更しました。さっそくブックマークなどしていただいた皆様には恐縮ですが、変更を願います。すみません。
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属人思考との対峙
http://childdoc.exblog.jp/10900247/
2010-06-30T21:05:00+09:00
2010-07-01T06:50:28+09:00
2010-06-30T21:05:13+09:00
yamakaw
日記
同僚にそういう態度で仕事をする人がいるとずいぶん鬱陶しいだろうと思う。
ちょうどこの春、研修を始めるあたりでこの本を読んで属人思考という観点を知って、自分の姿を明瞭な言葉で言い当てられたように思った。
権威主義の正体 PHP新書 330岡本 浩一 / PHP研究所
それはそうと、いらない広告が入らないのが良いところとおもってexciteのブログを利用してきたんだが、そのexciteブログにもとうとう来月から広告が入るらしいですな。それなら凡百の他ブログサービスとあんまり変わらなくなるなあ。他所を当たるかな。
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研修はあと1ヶ月
http://childdoc.exblog.jp/10892491/
2010-06-29T12:53:09+09:00
2010-06-29T12:53:08+09:00
2010-06-29T12:53:08+09:00
yamakaw
日記
ことここに至ってこんなこと言うのもアレなのは分かっているつもりだが、いまだに大学に馴染んだ気がしない。下っ端仕事をやると言いながら、実のところはよく働く若手におんぶに抱っこで面倒なことをぜんぶやってもらってるからかもしれない。仕事って実際にやらないと憶えられないものではある。
そもそも、十数年がところ好き勝手やってきて自分の意のままに動くようになったNICUを出てきたのだから、古巣での自在さを求めるのには、3ヶ月でもやはり短かすぎる。
5年目の女医さんに限らず、この期間中にも大学NICUには次から次に短期研修の若手がやってきた。自院での数年分の入れ替わりを3ヶ月のうちに経験した。やはりこの大学は上り調子なんだろうと思う。
他所様に居候している身で、世間様に向かってあんまり勝手なことを述べ立てるのもなんだしという気がして、ブログの更新もしばらく怠っていたが、そろそろ研修のまとめくらい書かせていただいても良い時期かと思う。ということで、しばらく研修のまとめを書きます。
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君にそんなことは言われたくない。
http://childdoc.exblog.jp/10476517/
2010-04-23T19:56:48+09:00
2010-04-23T19:56:46+09:00
2010-04-23T19:56:46+09:00
yamakaw
よのなか
おっしゃることはいちいちごもっともであるが、ごもっともな内容でも語る人の属性によってはごもっともと首肯できないこともある。狭量だとか属人思考だとかとのお叱りはあるだろうが。
「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。
こういうことを、必要なものを若い世代からただで搾取することで調達してきた世代の人に言われると非常に腹が立つんだが、それは私が狭量だからだろうか。]]>
研修
http://childdoc.exblog.jp/10409078/
2010-04-13T19:58:07+09:00
2010-04-13T19:58:09+09:00
2010-04-13T19:58:09+09:00
yamakaw
日記
そんなご近所に二つもNICUがあってどうするんだという突っ込みも全国からあるだろうが、しかも大学病院は賀茂川を挟んで二つあるので実は三つのNICUがご近所なのだが、じっさいに通ってみると患者層がずいぶん違う。まるで無駄ではなかったんだなと認識を新たにしている。むろん面食らっている。小児外科とか心臓血管外科とか、新生児科・小児内科だけでは収まらない子ばかり。なにかと勝手が違うなと思いつつ、5年目の女医さんといっしょに下っ端仕事をしている。まあ、それはそれで楽しいんだが。
他からあれこれ呼ばれず一日NICUに居ていい生活なんて、楽しくないわけがないじゃないか。
全国広いとはいえ、いちどは一施設の部長を名乗った医者が、その肩書きのままで研修をしているなどという事態はそうそうないだろう。国内でもいちばん薹がたった研修医ではなかろうかと思う。最近の発達心理学では人間は一生発達し続けるものらしいから、それはそれでよかろうと思う。]]>
やっぱりNICUでの育て方を間違うと自閉症になるのかね
http://childdoc.exblog.jp/5265338/
2010-04-07T20:11:54+09:00
2010-04-07T20:11:49+09:00
2007-03-21T19:45:14+09:00
yamakaw
新生児
4月の日本小児科学会学術集会の抄録集をつついていて、下記の記載を見つけた。
NICUの児は治療のために過剰で不快なストレスにさらされている・・・近年、早産児の大きな後遺症は減少したが学習障害やADHD、自閉症などの高次脳機能障害が見受けられる。過剰刺激と本来必要な親からの抱っこなどの安心できる優しい刺激を受ける機会が少ないことが、この問題に結びついていることは容易に理解できる。
やっぱりNICUでの育てかたが悪いから未熟児が自閉症になるんですかね。それは「容易に理解できる」ほど自明なことなんですかね。
私もディベロップメンタルケアはそれなりに勉強したつもりだし、この演者が仰りたいことはたいがい想像がつく。でもこうしてベッテルハイムの二番煎じみたいな言説が自分の専門分野から持ち上がってくると、自閉症児の親としては心穏やかではない。
ベッテルハイムは精神分析的な観点から、冷たい親が敵意を持った育て方をするから子供が自閉症という精神疾患を患うのだと力説した。それが一世を風靡してしまったので、一世代前の自閉症児の親はずいぶん辛い思いをなさったと聞く。やがて自閉症は先天的な脳の器質的障害によるものだとされ、親の育て方が悪かったのだというベッテルハイム一派の説が否定されて今に至る。
今度は「育て方が悪くて成長著しい時期の脳に障害を及ぼすから自閉症やADHDなんかが後遺症として現れる」という言説が登場したわけだが。精神分析でないぶん進歩だとは思うけれども、またもや育て方の影響を云々せねばならないには違いない。今度は親としてではなく、NICU医師として。でも私なんぞのように両方兼ねている立場ではなおさらしんどいな。
そしたらNICU退院後の時期にも、育て方が悪かったら自閉症になるんだろうか。だとしたら、親御さんにはとんでもない重荷を背負わせてこどもさんを帰すことになるね。共働きで抱っこの時間が長くは取れなさそうなんですが将来の自閉症につながるんでしょうか、とか、ご心配になられるんじゃないかな。それとも、例えばNICU退院前後の時期に臨界期があって、それ以前のストレスなら自閉症の元になるけどそれ以降なら大丈夫、みたいな話があるんだろうか。それならあんまり「自明」な話でもないやね。
自閉症の病理やそれにまつわる歴史についてきちんと勉強した上で、この演者はここに自閉症を持ち出しているのだろうか。あるいは他のディベロップメンタルケアに関わる人たちも、環境要因で自閉症が生じるという言説の危険さが分かってるだろうか。この言説を不用意に口に出すってね、日本小児科学会の公式ロゴにハーケンクロイツを選定しようと提案するくらいやばいことだと思うんですがね。それなりの覚悟で言わんと。
こういう質問は口演の会場で直接演者にぶつければ良いんだろうけれども、残念ながら学会に参加できる見込みがまるでない。220円で日帰りで行ける場所なんだけれどもね。]]>
居心地のよいNICUとは
http://childdoc.exblog.jp/10344534/
2010-04-04T19:08:00+09:00
2010-04-04T21:51:48+09:00
2010-04-04T19:08:02+09:00
yamakaw
読書
アホな上司はこう追い込め! (光文社ペーパーバックス)長野慶太 / 光文社
居心地のよいNICUとはどういうNICUか、とさいきん考えている。
内田樹先生の影響でもある。先生がくりかえし仰る、社会の変革をめざす集団ならその集団自体の内部にはすでに自らが実現しようとしている社会の形態が実現していなければならない、という指摘は正鵠を射るものだと私は思う。NICUは社会変革をめざす集団ではないが、しかし、赤ちゃんを含めた家族の新しい出発点となる場所ではある。家族がこれから闊達で幸せな家庭となるのなら、その出発点たるNICUのスタッフである我々もまた、幸せな、きもちよい仕事をしているはずなのだ。風通しの悪い抑圧的なNICUから送り出されても、そこから出発する新しい家族もまた風通しの悪い抑圧的な家庭にしかならないのではないだろうか。
しかし職場のいごこちを追求しようとしたときに、つい、疑似家族的な人間関係を求めてしまうというのが、よくある陥穽なのではないかと思う。とくに私の年齢層、そろそろ新人の年齢が自分自身よりも娘や息子のほうに近くなってきたあたりから、その傾向が顕著になるのではないかと思う。
疑似家族的な人間関係はNICUの人間関係としてあまりよろしくない。けっきょくNICUは家庭ではなく職場であって、しかも仕事の内容がかなり重大な帰結をもたらす職場であって、それなりに厳しくなければならない、という事情はある。それは言うまでもないことだ。加えて、私のようにあるていど年長になった人間が疑似家族の家長的な配役を演じ始めたら、若い人たちにはずいぶん抑圧的だろうと思う。大多数のスタッフにとって、それは居心地のよい職場を実現する道筋ではないのではないか。
半人前のこどもたちを育てて一人前にして世に送り出したり跡目を継がせたりするというのが、家族の物語であろう。疑似家族的な人間関係を職場に求める上司は、擬似的なこどもの位置に置いた部下を半人前扱いする。そして家長たる自分自身は、彼らを育てねばならないと変に意気込む。疑似家族の幻想に立脚した上から目線で。
だいいち家族においては、一人前になったこどもは出て行くか親を隠居させるかのどちらかである。部下に出て行かれて人手が足りなくなるのも隠居させられるのもきらう家長的上司は、構造的に部下を半人前扱いする。部下の客観的な能力には関係なしに、先験的に、彼の部下は半人前と決まっている。上司としては、自分は彼らを育てようと骨折っているのに、「近頃の若い者ときたら」いつまでたっても成長しない、ということになる。俺が育てて面倒見てやらんとこいつらは駄目だ、と彼は思っている。じつは彼らに去られて困るのは自分の方なのに。
しかしそもそも職場においては、構成員の誰一人として一人前以下の扱いを受けてはならない。一人前に扱われればこそ一人前の仕事をする、というのが働くものの本来のありかただと思う。ちなみに半人前に扱われるのに一人前の仕事を要求されるのは奴隷という。奴隷扱いされる職場がいごこちのよい職場であろうはずがない。というか、奴隷扱いされて居心地よくなるような変態はうちのNICUにはいらない。
奴隷は職場を去る自由もない。こどもに家庭を去る自由がないのと同じ。
前置きが長くなったが、そういうことをあれこれ考えてまとまらないでいるときに、この2冊を読んで深く感じ入った。疑似家族ではない、あくまでも職場の、人間関係はどうあるべきかということが論じてある。他の評でも言われていることだが、タイトルこそ扇情的であるものの、書いてある内容は真っ当である。おりにふれ、繰り返し読むべき本だと思った。だがさすがに、医局の本棚に置いておくのは憚られる。
しかしこの2冊を読んで我が意を得たりと思うのはかなり危険なことだ。この2冊の大前提として、読む立場の自分自身がそうとう厳しく自律していることが求められている。この2冊の内容を実践するにふさわしいほどの実力の人なら、むしろ、俺なんかがこんな実践やって大丈夫か?と常に疑っていることだろうと思う。逆に、自省なしにこの2冊をそのまんま鵜呑みにしてしまうようなレベルの人が、鵜呑み実践をやってしまうとかえってまずいんじゃないかと思ったりする。自分をも疑いながらおそるおそる実践するのが本書の正しい読み方ではないかと思う。少なくとも、私ごときには。
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子猫殺しのその後
http://childdoc.exblog.jp/10259400/
2010-03-23T21:33:04+09:00
2010-03-23T21:33:08+09:00
2010-03-23T21:33:08+09:00
yamakaw
読書
赤ちゃんの生き死ににふだん接している新生児科医として、というよりもむしろ、猫を多頭飼いしている「愛猫家」のひとりとして、関心をもってはいた。著者の、特定の猫には住みかを与え餌を与え、著者にとっては貴重なことらしい性交と出産もさせるのに、その結果生まれる子猫は即座に崖から投げ捨ててしまう、その非対称さが腑に落ちなかった。生命一般にたいして著者がとる態度が、自称しておられるほどに敬虔な態度といえるものなのか、私には疑問であった。むしろ、この非対称さ故に、私は著者が生命に対してひどく恣意的で不遜な態度をとっているように思われてならなかった。
話題の子猫殺しのトピックばかりではなく、連載のエッセイ全体を通読してみたら、それで初めて分かることもあろうかと思ったので、本書を京都市図書館から借りてきた。しかし、エッセイ自体の内容は「美味しんぼ」で山岡史郎君が述べていたようなことと大差がなかった。全体に、陳腐な論考だと思った。子猫殺しを持ち出す必然性を感じさせるような斬新さは感じられなかった。あえて子猫殺しに言及したのは、子犬殺し(じつは猫だけではなかったのだ)への反響に腹が立ったから、という以上の理由がないように思われた。
本書では、3人の論客との対談によって、このエッセイの新聞掲載時に受けた攻撃に対して反論している。しかしその反論も、私には、こどものけんかの水準を超えないように思われた。曰く、攻撃してくる面々も牛や豚を殺して食べてるじゃないか私が子猫を殺すのとどう違うのだと。あるいは、避妊することによって子猫の存在の可能性を絶つことも生まれてしまった子猫を殺すことも同じことだろうと。このような主張は、私には、見方によっては共通する点も無いとは言えない事項を持ち出して、部分的な類似点を無理に拡大して全部が同じ事だと言ってしまう、ひどく粗雑な議論のしかただと思えた。
反論の低水準さを別にしても、反論するということ自体が戦略的な誤りだと、私は思う。あのとき著者に対して集中的になされた攻撃は、著者自身の生命すら奪えと主張するような、極端で脅迫的なものであったからこそ社会的な問題とされるべきだったのではないか。であれば、著者がなすべきは脅迫の不当性を訴えることであろう。しかし著者が本書で行ったのは、必死になって子猫殺しの正当さを主張することであった。そうすることで、脅迫を反論に格上げしてしまった。愚かなことだ。私とて著者は脅迫にさらされるべきではないと思う。それはしかし、子猫殺しが正当な事かどうかとは関係がないことだ。
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混み合うNICUで
http://childdoc.exblog.jp/10216919/
2010-03-18T19:09:00+09:00
2010-03-18T19:11:24+09:00
2010-03-18T19:09:32+09:00
yamakaw
日記
その予備を使い切るかどうかがいつも胃痛の種である。ちなみに明日は他院で手術を終えて帰ってくる予定の子がいて、その子が帰ってきて残り1台ずつの保育器や人工呼吸器を使い始めたらいよいよ当院は残数0となる。突発的な分娩時仮死などあったら、当座はもちろん蘇生するとして、数時間以内に他院を探さなければならなくなる。かなり追い込まれた状況ではある。それは何とか避けたいと思って、身勝手を承知で帰院の延期ができないか相談してはみたのだが、この子が明日出て行くことを見越してあれこれの計画を立てているからと、延期は断られてしまった。
しかしそれでも今夜のうちは予備があるといえば、無いわけではないのだ。各施設に、取り置きの空床はたいてい存在するはずなのだ。その取り置き以外に空きがあれば、施設間でやりとりする空床状況表にはじめて公示される。そのような臍繰り的な、とっておきの1床はたいがいあるものだ。現状でそれを確保しておくのは身勝手でも怠慢でもないと私は思う。リスク管理と言ってほしい。
ただ、京都のように大都市の割に大きな施設がなくて、中小施設が乱立している土地では、各施設がそのような臍繰りをいちいち確保していると、総計ではずいぶん無駄が大きいと思う。NICU認可病床は京都市内に私が認知している限り総計24床存在する(他に6床が工事中で休んでいる)。この24床が一つの施設にまとまって存在するとしたら、臍繰りも一施設分で済む。
この臍繰りを思い切って吐くことができるか、それはどれくらい他院を頼れるかということの裏返しなのだが、お互いに囲い込みを強化しあい始めたら、どうしたって臍繰りは死守しなければならなくなる。セーフティネットが機能不全な社会での経済活動の常だ。しかし明日からの当院のようにいよいよ立錐の余地すらなくなった場合に、それでも急に発生するNICU入院を近隣で受け止めていただけるなら、それなら臍繰りなどと貧乏くさいことを言わずに、手持ちのリソースをすべて空床として世間に解放できるかも知れない。
臍繰り云々の裏話はあれ、うちは小児外科も心臓血管外科もない、小児内科と眼科だけのNICUだが、とにかくぎりぎりまで空床を開けろというポリシーである。うちが空床を開けることで、近隣も堅い財布のひもが緩むかも知れない。とにかくあそこは開いているという安心感を、京都市内の周産期施設にはできるだけ持っていただきたいと願う。]]>
連載第1回の永劫回帰
http://childdoc.exblog.jp/10211723/
2010-03-17T23:40:05+09:00
2010-03-17T23:40:06+09:00
2010-03-17T23:40:06+09:00
yamakaw
日記
システム工学の人が、カイゼンとかISOなんとかとかで医療の質を高める云々と語っていった。どっかで聞いたようなことばっかりだった。もう10年の上から同じ病院に勤めていると、同じような企画の講習会を延々聞き直させられることになる。
それはちょうど「ドラえもん」の連載第1回を延々と繰り返し読まされているような感覚だ。連載の2回目も3回目も、机の引き出しからドラえもんが初登場して、のび太の悲惨な将来と、それを改変する可能性について語る。なるほど次回からのび太の将来を変える活躍が読めるんだろうと期待したら、あろうことか次回もまたドラえもんが「初登場」してのび太の悲惨な将来とそれを改変する可能性について語るのだ。前回は青いドラえもん、今回は赤いドラえもん、次回はたぶん犬型のドラえもん、その次は四次元ポケットが背中についたドラえもん。繰り返し繰り返し。
おかしいなと思ってよく読むと、最終ページの枠外に「のび太の将来は変わるのだろうか。藤子不二雄先生の次回作にご期待ください。」とか書き込んであるんだ。講演後の担当者が挨拶して「今日はたいへんよい勉強になりました」云々と言うのはそういう意味だろ? 毎回飽きもせず。
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研修医とクラ儀礼
http://childdoc.exblog.jp/10178712/
2010-03-13T18:22:10+09:00
2010-03-13T18:22:12+09:00
2010-03-13T18:22:12+09:00
yamakaw
医療関係あれこれ
クラ儀礼はソウラバという赤い貝の首飾りと、ムワリという白い貝の腕輪の交換である。
この装飾品にはまったく実用性がなく、他のいかなる品物とも交換することはできないので貨幣としての機能もない。
ただ、それぞれの装飾品には、それをかつて所有した人々についての伝承が「物語」として付随している。
これを長期間自分の手元にとどめておくことは許されず、次の交換相手へと手渡さねばならない。2種類の装飾品はクラの円環を、互いに反対方向に、とどまることなく回り続ける。ソウラバは時計回りに、ムワリは反時計回りに、2年から10年で島々を一周する。
クラ交易に参加できるのは男性だけで、参加資格を得るのは大きな名誉であり、「有名な」装飾品を手にしたものは、いっそう高い威信を手にする。
クラに参加したものは装飾品のやりとりをする相手として「クラ仲間」を有しており、「堅い契りの義兄弟」関係として生涯にわたって持続する。
クラ交易そのものは経済的交易ではない。
だが、クラの機会に、島々の特産品の交換が行われ、情報やゴシップがやりとりされ、同盟関係の確認も行われ、クラが必要とする遠洋航海のために造船技術、操船技術、海洋や気象にかんする知識、さらには儀礼の作法、政治的交渉のためのストラテジーなどを参加者たちは習得することを義務づけられる。
つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ピュシスの贈り物 (内田樹の研究室)
研修医ってのも各地のNICUのあいだで交換される首飾りみたいな存在なのかねと思った。何の役にも立たない、と言ってしまうのは研修医諸君に失礼だが、しかし役に立つからといって研修医を受け入れるのは詐欺だ。役に立てようとして受け入れるんなら研修医じゃなくて一人前のスタッフとして受け入れるべきなんだから。公式には、彼らは役に立たない者として受け入れられるべきなのだ。
研修医は各地のNICUをぐるぐるまわる間に、研修にまつわるたくさんの物語を身にまとっていく。どこでどういう症例に出会いこういう問題意識を持ったので次はこの施設へ行って誰それ先生の元でこういう手技を学びこういう研究を行い、云々。
研修医を交換する施設の側も、男性に限るかどうかは別としても、研修医の交換に参加できるのはおおきな名誉であるし、研修医を出す施設受け入れる施設の間ではあたかも「堅い契りの義兄弟」といった関係が形成される。そういう研修医の行き来がなされることで、「共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟」というかたちでの新生児業界全体の発展がなされる。まあ、研修医の交換ははたしかにクラ儀礼だねと思う。
であれば、人手が足りないから研修医を受け入れよう、というのは邪道ということになる。人手が足りないからという理由で研修医を入れていると、研修医を手放さなくなるからだ。つぎにいつ新しい人が来るかどうか分からないという不安も手伝って(研修医の労働力に依存するような貧困な施設には研修医なんて滅多に来やしない)、彼らが新しいステージに進むのを拒むようになる。具体的には、彼らに対して君はまだ未熟だからこの施設で学ぶことがたくさんあるという物語を語り続けることによって。さんざんこき使いながら、その仕事ぶり成長ぶりを過小評価し続けることによって。
しかし本来は、過小評価するも何も、研修医はもともとそれ自体に内在する価値はない存在なのだ。ゼロベースでやってきて、島あるいは研修施設での、持ち主あるいは指導者側による伝承を身にまとって、次の施設へ移っていく。ソウラバやムワリと同じく、価値が減損することはあり得ない。ソウラバやムワリと研修医とに違いがあるとすれば、ソウラバやムワリは入手した時点で「有名」であることが可能だが、研修医はたいていの場合において無名であるということだ。施設への評価は事後的になされる。あんな有名な新生児科医がかつてはあの施設で研修したんだというように、伝承は時間を遡って研修施設の「威信」を高めることになる。
話を2段落前に戻すと、過小評価され続けた研修医は、なんかこの施設でいつまで働いていても満足に成長している気がしない、と、研修施設を見限って、袂を分かつように外へ出て行く。ようするに、気前よく研修医を外へ出せない施設は、気前の悪さのゆえに研修施設としての格をみずから落としていく。
クラ儀礼と同じく、研修医も気前よくぐるぐると回さなければならない。宵越しに手元にとどめておきたがることは野暮なのだ。
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判断に疲れる
http://childdoc.exblog.jp/10155540/
2010-03-10T15:26:14+09:00
2010-03-10T15:26:14+09:00
2010-03-10T15:26:14+09:00
yamakaw
日記
こういうむちゃくちゃな日程で仕事するのは最近マンパワーが増えてからは久しぶりのことではあった。とくに体力仕事をしたわけでもなく、たとえば超低出生体重児の入院時処置(中心静脈確保とか)は若手が行ったし、私はひたすら指示出しばかりだった。おそらく船長とか艦長とか言われる人々はこういう仕事の仕方になるんだろうと思った。しかしひたすら判断を求められ続けながらNICUで52時間、その後に講義と質疑応答1時間ちょっと、それから病状説明で1時間弱。そうそう楽なことではなかった。
帰宅したらもう何もする気が起きなかった。飯と風呂をどっちにするかと妻に聞かれるのさえ物憂かった。もうすぐご飯は炊きあがる、風呂もバス乾燥の洗濯物をどけて沸かしなおせばよいのだけど、とか状況説明を受けても、どっちという選択をするのがつらかった。なんでこんな落ち込んでるんだろうと考えて、ああなるほど「判断」に疲れてるんだと気がついた。
でも同じことを俺らはNICUでやってるよねとも思った。超低出生体重児の入院受けで、今はリスク管理と称して人工呼吸の合併症とか偶発事故とか、カテーテル感染の危険とか抜去困難のリスクとか、一連の集中治療手技のことをお話ししろというのが公的なお達しだが、さてさて我が子が超低出生体重児として生まれただけでストレスフルなときに、人工呼吸には計画外抜管とか気胸とか起こりえますがよろしゅうございますかなどと聞かれて、聞かれた方としてはどうすりゃいいんだ? 人工呼吸を止めるというのはすなわちこの子を殺すということになる。選択肢としてはとりようがない。合併症の危険は承知しました、極力危険の無いようによろしくご高診くださいとしかもうしあげようがない。ストレスフルな状況にさらに判断のストレスをかけているのが問題の第一。しかも、選択肢がけっきょくあるようでない、医師が提示する模範解答と違うことを言えば医療ネグレクトと言われかねない、そういう「答えが質問側が想定した唯一の模範解答以外にあり得ない」質問ってのを無理矢理答えさせるのは、一種のハラスメントではないかと思う。それが問題の第2。
そういうことを現場に強いてそれがリスク管理か?君らが用意しろと言う新生児集中治療のさまざまな危険を書き並べた文書ってのはほんとうに現場からさまざまのトラブルを払拭するのに役に立つことなのか?と思ったりする。まあうちの上層部はいろいろ他に忙しいことがあるらしくてあんまりそういうことを言わないけど、他所の大きい施設でそういう書類が上層部から降ってきたり、あるいは自分でそういうのを作るのが好きな先生が居たりして、辺境から見てると、なんだかなあと思うんだ。
大変なときってのは飯と風呂とどっちが先?と聞かれるだけでも大変なのだよ。まだうちの妻は、自分が飯が先と思ってるときに亭主が風呂だと言い出してもなんだかんだ言わない人だからいいけど。
おおらかすぎるのも考えもので、「判断をさせてくれるなよ、判断って奴に疲れたんだ」と言ったら、「ふーん、でお風呂が先なの?」と問い返された。へなへな。]]>
上品さという美徳
http://childdoc.exblog.jp/10123593/
2010-03-06T14:59:15+09:00
2010-03-06T14:59:12+09:00
2010-03-06T14:59:12+09:00
yamakaw
よのなか
上品な人は、自分が受けている待遇はつねに標準以上のものだという前提で動く。だからことさらに要求する必要を感じておられない。自分の必要とすることをさらっと伝えてこられる。そして必要が満たされたら、標準以上の待遇がされたさいになされるような、丁寧な御礼を常にくださる。
そういう人に対しては、こちらも奮起せざるを得ない。というか、どんなに疲れていても、そういう人に相対してその疲れが増幅されることはないように思う。心理的にも体力的にもなんらの負担の上乗せなく、気がついてみると自分でも驚くほどの機嫌の良さ気前の良さで、めいっぱいなサービスをしている。
上品な人の態度をみていると、この人らは、我々が提供したサービスがどのようなものであろうと、自分に提供されたのならそれは標準以上のサービスなのだとお考えのようにさえ見受けられる。そのようにお考えであればこそ、彼らが受けるサービスがそのお考えの結果として標準以上になるという機転があるように思える。
読者諸賢には当然にご賢察賜れることと思うのだが、ここでいう丁寧な御礼とは金銭など物質的なものを伴うという意味ではなく、あくまで物腰や言葉使いに現れる態度としての御礼である。丁寧なお言葉をいただくほうが、床に投げられた小銭を拾わされるよりも遙かに嬉しいものではなかろうか。
上品でない人、当院ではめったにお目にかからないのであるが、土地によってはそういう人が主流を占めている場所もあるらしい。そういう人は、常に自分が標準以下の待遇しかなされないという前提で行動しているように見受けられる。だから何を提供されても、とりあえずそれ以上を要求してみる。「だめもと」と彼らは考えているようだ。そしてその「だめもと」が通らなかったときにはむろんのこと、通ったとしてさえも、自分がうけた待遇はそれでもあくまで標準以下のものであって、多少の改善は自助努力の結果だと思っておられるようで、標準以下の待遇を受けた人がその待遇に対してなさる程度の返礼をなさる。それ以上の礼は損だと思っておられるかのように。頭を下げるときに僧帽筋が使うグリコーゲンの分子がもったいないとでも言うかのように。
そういう人に接すると、どわーっと疲れる。最初の一言から自動的に防衛に入ってしまう。機嫌良さとか気前よさとかがまるで発動しない。とにかく瑕疵が無いように話をまとめてさっさと切り抜けようというマインドセットに入ってしまう。そうなってしまう自分側の心理の是非は是非でまた問題だが。
多分に上品でない人は、自覚的には、自分は目端が利くから人生の各場面でいろいろ得をしてるとお思いなのだろうと拝察する。しかし彼らは、上品な人が上品な故に受けている余録とはまったく縁がない。縁がないので気づきもしないから、知らぬが仏っつうことでいいのかもしれないが。逆に上品な人は、上品でない人が意識し努力して得ている以上の余録を、意図せず労せずにその上品さへの対価として受けている。上品な人が周囲に振りまく上品な幸福感の故に、それはまったく正当な対価だと私は思う。
そういう上品さは先天的なものなのか、後天的に身につけるものなのか、私にはわからない。でも診療していて、親御さんが常にそういう態度で人に接するところを見て育った子どもは幸福な一生を送るんだろうなと思わされるような、上品な親御さんが確かにある。そういう親御さんの子は幸福側に有意に偏った人生を送ることになるんだと思う。世の中って善意にあふれているよねとか思いながら、感謝する機会が多く、なおかつ機会ごとに感謝を忘れないような幸福な人生を送るんだろうなと思う。
逆な親御さんの子は、残念だが、残念な人生を送ることになるんじゃないかと思う。幸いなことに当地では滅多にお目にかからないけれども。かつて駆け出しの頃に救急外来にいて拝見した子の親御さんで、開口一番、おまえらじゃ頼りにならんから上級医を呼べと要求した父親があった。まず我々が診ることが決まりになっていますと答えたら、舌打ちして「ほな診いや」と顎をしゃくった。後にも先にも、文字通りに他人に顎で使われたのはそれきり経験がない。いまごろあの子も成人している頃合いだが、父親を見習って生きていたら、たぶんに今の世の中における「勝ち組」に入っているだろう。得る機会のある利得はすべて得るよう努力し、その大半を実現するような生き方をしているだろう。それで幸せならそれはそれでよかろう。しかし、ひょっとしてあの子が、どうして俺はこんなに順風満帆のはずなのに満たされないんだろうとか思っているとしたら、これは社会的格差のありかたの一つかもしれんと思う。昔の人は親の因果と言ったかもしれん。格差嫌いの内田樹先生なら、それを親による呪いと言うんだろうと思う。
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零式艦上戦闘機
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2010-03-05T19:55:00+09:00
2010-03-05T19:57:07+09:00
2010-03-05T19:55:35+09:00
yamakaw
読書
新潮選書 零式艦上戦闘機清水 政彦 / 新潮社
表紙に「れいしき」とふりがなが振ってあったので、うっかりこっちが「ゼロ戦」と読んだら敵性用語だといって鬼の首を取ったように居丈高になる類の、面倒くさい著者なのかなと思った。読んでみたら、それほど思い込みの強そうな印象ではなかった。ただ、どこかで書評を読んでなるほどと思ったのだが、この著者はゲームを通じて零戦に親しんだ人ではないかという印象を、私も受けた。零戦の機体や機銃弾に関する考察が、いちいちシミュレーションくさい。そらまあ実機を飛ばして実弾を撃って実験するわけもいかんから仕方ないんだろうけど。
本書でなされた重要な指摘は2点だと思う。1点目は、ガダルカナル戦あたりまでは、現場で零戦を飛ばしていた面々はそれほど劣勢に立たされているような気はしてなかったんじゃないかということ。総計してみれば相当に戦力を失っていたんだが、一回一回の戦闘での損耗はそれほど大きくなかったので。
2点目は、昭和18年になるまで、日本は割の単位で勘定するのが適切なくらいの莫大な戦力損耗というのを経験していなかったということ。イギリスなどヨーロッパの連合国はドイツとの開戦直後にそのような巨大な戦力の損耗を経験していたし、アメリカも直接参戦はしていなかったにしてもその情報を得ていた。まあ対日戦も緒戦はぼろ負けだったしね。日本だけが、この時点に至るまでついに、ほんとうに厳しい戦争というものの経験がなかった。
戦争のたとえ話で医療を語るのはよろしくないとは言いながら、この分析には他人事の気がしない。今も私は日々淡々とNICU仕事をしているし、身の回りでそれほど困窮した状況を見聞きしているわけでもない。でも後になって振り返って集計してみれば、ああ俺がのんきにやってたあの頃も実は刻々と事態が深刻化していってたのだなと、悟らされてほぞを噛むことになりそうな気がする。それにもまして、いよいよ追い詰められて、損耗率の莫大さが目に見え始めて以降どういうことになるかなと。かつての軍部みたいに現代に幅をきかせている医療業界が、一気に崩壊するようなことになるのかなとも思う。
ちなみに、連合艦隊の最後の旗艦は「大淀」といった。艦名の由来は宮崎県の川らしいけどね。奈良県の地名じゃなくて。
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