こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

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「レヴィナス序説」コリン・デイヴィス著 内田樹訳 国文社

読了しました。難しかった。やっと最後のページにたどり着いたという心境でして、最初の所に何が書いてあったかかなり朧気です。原著者の論の立て方は平明だし訳者の内田先生の力量も周知のことですが、なにせレヴィナスという人の難解さはただ事ではないらしい。明快な論調を平易な日本語に訳してあるのに内容はついて行くのがやっとです。著者も「レヴィナスは何故このように難解なのか」を再々問題にしています。あんまり難解なので読者はみんな自分の分かったところだけを継ぎ接ぎして読むものだからレヴィナスの思想は読者のスタンスによっていかようにも読めるとのこと。いかようって漢字で書くと如何様ですがこの語をイカサマとも読みますね。普通そんないい加減なやつ相手にしないもんじゃないかなと思うのですが、それでも無視できないというのは確かにレヴィナスという人は凄い人なんでしょうね。

レヴィナスという人は「他者は他者なんだからあんまり他者のことを分かったような気になってはいかんのよ」ということを説いた人らしいと、私は理解しました。この「他者」という概念を出発点にして奥深い倫理的考察を積み重ねた人らしいです。って筆が滑って簡単に書いてしまったんだけど、「他者という概念を扱う」のは「他者は分からない」という彼のテーゼに矛盾しますわな。他者は分かりようが無いと言いながらその他者に関する論を軸にものを考えるんだから、考えるものも難解になるはずです。ちょっとクリアカットになろうとすると、すぐ、分からないはずの他者の内部に踏み込んでしまって自己矛盾に陥る。やれやれですね。

内田樹先生の書物でレヴィナスの紹介を読み、自分がかねてから考えていた疑問についてこの人なら答えてくれるかもしれないと思っていました。

その疑問とは、重症新生児の治療方針に関してうちのNICU部長が常々申しますところの「この子が自分の愛する家族と思って考える」という方針がはたして妥当であるかどうかです。

この場合の「重症」とは治癒を目指すことの善悪を問う生命倫理が前面に出てくるレベルの重症さだとお考え下さい。

この重症の子を我が子と思って自分を親の立場に重ねることが可能なのかどうか。

無理でしょ。レヴィナス先生のお陰で確信しましたよ。

親御さんは私たち医療者にとって「他者」であり、赤ちゃんは私たち大人にとって「他者」です。いや、ここで医療者として括るとき、私は「他者」である部長や看護師たちを自分の内部に引き入れて理解可能な存在として扱っていますが、彼らとて「他者」には違いありません。互いの点滴の上手さとか観察の確かさとかといった医療者としての技量こそ分かり合っている積もりですけど、例えば5年ほど一緒に仕事をしているNICU主任について看護師以外の面を私がどれだけ知っているか。凄い美人だし知りたくなくもないのですけどさ、赤ちゃんの生き死にに関わる倫理観を共有するのには互いの職業生活に止まらずそれなりに深い相互理解を必要とするのではないかな。それが私生活まで突っ込んで知り合うってことなのかどうかはまた別論が要るだろうけれども。あるいは私たちを大人として一括するとき、赤ちゃんを介しての関係でしかない親御さんまでを自分の仲間うちに取り込むことになります。ある時は他者。ある時は身内。それってご都合主義と言わないか?

あるいは、「愛する家族」すら他人ですやん。

私は妻を愛してる積もりですが初めて会って20年から経ってる彼女が臨死になったとしても治療方針なんて私の一存では決められないでしょう。生涯の半分以上、母親と一緒にいた期間よりも長いこと付き合ってるんですけどね、でも隅々まで理解して身代わりに何か判断するなんて到底無理だ。付き合えば付き合うほど分からんところが出てきますよ。

その「無理」はこのレヴィナスの概説を読んでほぼ確信しました。

で、その「無理」で諦めて放り出すのかどうか、放り出さないとしたらどういうスタンスがあり得るか、レヴィナスの思想はその方面で結構豊穣であるように思えます。

放り出してしまうようなら只の世捨て人ですね。レヴィナスが徹底して倫理に拘っているというのは必然的なことだと思います。でも彼の思想から生命倫理の体系を立てることが出来るかどうか。

そもそも、生命倫理といえばカントの定言命法とミルの功利主義から時代が進まんようでは生命倫理も怠慢甚だしいですよ。でもレヴィナス的生命倫理ってのがあり得るか。あり得ないでしょうね。他人は他人だって言う人ですから自分も他人も総括する倫理体系なんて興味ないのでしょうね。
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by yamakaw | 2004-06-25 20:48 | 読書