2004年 09月 11日
機械使えばいいじゃんってのはお気楽すぎるのか |
重度心身障害学会1日目
一日目の最初から呼吸管理のセッション。
一般演題はこれが聞きたくて学会に来たのだ。旭川に昨夜のうちに到着することにこだわったのも呼吸管理のセッションが初日の朝一番に始まるからなのだ。
しかし始まってみると、ふだんNICUで人工呼吸器を普通に扱っている感覚では、この学会は随分場違いだ。
緊張や気管軟化症やで喘鳴の続く重症者にBiPAPを当てたら楽になりましたという発表が続く。気道感染の入院が減ったとか、睡眠時無呼吸が減ったとか。楽になるのは分かってるじゃないかとNICU医師の私の感覚が鼻で笑う。患者さん本人は気道が通って呼吸が楽になるし、看護する側は喀痰吸引の回数一つとっても激減するし。後はいかにマスクをフィットさせるかだけの問題だと思っていた。
たとえば未熟児新生児学会でnasal-DPAPを当てたら無呼吸発作が減って楽ですなんて発表しても、全く新味が無くて誰も聞いてくれないよ。
どの発表者も、自分達の患者が人工換気の適応基準を満たしていたとかいなかったとかの考察を入れてくる。まるで人工呼吸器つかって申し訳ありませんとでも言うが如く。いいじゃんどうせBiPAPなんだろと私は思う。使って楽になるならどんどん使えば良いじゃないかと思う。1題目でそう思い始めると2題目3題目あたりで早くも苛立ってくる。
同時に不安になる。ひょっとして俺の感覚の方が狂ってるのか?俺は担当の脳性麻痺の子が気道狭窄で努力呼吸が絶えなくなってPCO2が上がりだした時点でさっさと気管切開して在宅人工呼吸の手配してCPAP掛けてますがな。気道を通したら姿勢も良くなったし痰も激減したし程良く皮下脂肪もついてきたしでよかったよかったと思ってたのだけどね。自分が楽したいばかりに受け持ち患児をサイボーグ化する小児科医なのか俺は?
何かの間違いで旧日本陸軍に紛れ込んでしまったナチ機甲師団の中尉ってのがいたら今日の私みたいな気分になったのだろうか。潤沢に機械化した戦闘に慣れきった下っ端将校が、銃弾じゃなくて大和魂で勝つことを旨とする軍隊に紛れ込んだときのカルチャーショック。
しかも事が生命倫理に関わる問題だけに、足下がぐらつき出すと自分がナチみたいに思えてくるのよ。はは。情けない。
一連のセッションが終わって休み時間にロビーに出ると、一題目の発表者で私の質問を鷹揚に受け流したいかにもベテランの先生が煙草を吸っておられた。NICUの感覚では使って楽になる機械なんだからどんどん使えばいいと思うんですがと直裁に質問してみると、確かにそうだよと答えて下さる。でも親御さんが納得しないんだと。人工呼吸器に対する抵抗がどうしてもあって、何とかそれ無しで頑張って欲しいとみなさん仰るんだと。
私はそれほどには狂っていなかったらしいというので少しは安心する。でも問題の根はかえって深いと思う。頑張って欲しい、って、呼吸と栄養は健康の基礎だ。息が苦しいのを頑張って堪える生活って他のことは何も出来ませんよ。日々の食料を入手するのに手一杯の生活では文化はないでしょうよ。何を我が子に強いているのか親御さんは分かっているのかなと、「子供の苦痛を考えず自己満足に終始する身勝手な親」という仮想敵に向かって憤慨してみる。
でもね、仮想敵って実在しないから仮想敵なのよ。
人工呼吸器を使った方が絶対に楽になるということが明白な状況でも人工呼吸器をかたくなに拒否される親御さんがもしいらっしゃったとしても、こどもさんが苦しい思いをしているのは決して親御さんだけの責任じゃない。それまでの来し方というものがある。脳性麻痺の二次障害の進行とともに呼吸機能も衰えていくのですとの説明が十分であったかと医師は考えなければならない。これまで、半端な状況でアリバイ的に人工呼吸器の仕様を薦めて来なかったかと反省もしてみた方が良い。親御さんの拒否を予想しつつ一応勧めるだけ薦めておいて、親御さんの拒否の言葉を得たらすぐに推薦を引っ込めて、何かあっても自分は親御さんに適切な治療手段を薦めたのに親御さんが拒否したんだという言い訳を可能にしただけのことが無かったか。親御さんが、あの時も薦められたけど人工呼吸無しで乗り切ったし今度もこの医者の言うことは話半分に聞いてればいいやと思ってしまうような状況を作ってきてなかったか。そういうのって、「悪縁」だよね。
一日目の最初から呼吸管理のセッション。
一般演題はこれが聞きたくて学会に来たのだ。旭川に昨夜のうちに到着することにこだわったのも呼吸管理のセッションが初日の朝一番に始まるからなのだ。
しかし始まってみると、ふだんNICUで人工呼吸器を普通に扱っている感覚では、この学会は随分場違いだ。
緊張や気管軟化症やで喘鳴の続く重症者にBiPAPを当てたら楽になりましたという発表が続く。気道感染の入院が減ったとか、睡眠時無呼吸が減ったとか。楽になるのは分かってるじゃないかとNICU医師の私の感覚が鼻で笑う。患者さん本人は気道が通って呼吸が楽になるし、看護する側は喀痰吸引の回数一つとっても激減するし。後はいかにマスクをフィットさせるかだけの問題だと思っていた。
たとえば未熟児新生児学会でnasal-DPAPを当てたら無呼吸発作が減って楽ですなんて発表しても、全く新味が無くて誰も聞いてくれないよ。
どの発表者も、自分達の患者が人工換気の適応基準を満たしていたとかいなかったとかの考察を入れてくる。まるで人工呼吸器つかって申し訳ありませんとでも言うが如く。いいじゃんどうせBiPAPなんだろと私は思う。使って楽になるならどんどん使えば良いじゃないかと思う。1題目でそう思い始めると2題目3題目あたりで早くも苛立ってくる。
同時に不安になる。ひょっとして俺の感覚の方が狂ってるのか?俺は担当の脳性麻痺の子が気道狭窄で努力呼吸が絶えなくなってPCO2が上がりだした時点でさっさと気管切開して在宅人工呼吸の手配してCPAP掛けてますがな。気道を通したら姿勢も良くなったし痰も激減したし程良く皮下脂肪もついてきたしでよかったよかったと思ってたのだけどね。自分が楽したいばかりに受け持ち患児をサイボーグ化する小児科医なのか俺は?
何かの間違いで旧日本陸軍に紛れ込んでしまったナチ機甲師団の中尉ってのがいたら今日の私みたいな気分になったのだろうか。潤沢に機械化した戦闘に慣れきった下っ端将校が、銃弾じゃなくて大和魂で勝つことを旨とする軍隊に紛れ込んだときのカルチャーショック。
しかも事が生命倫理に関わる問題だけに、足下がぐらつき出すと自分がナチみたいに思えてくるのよ。はは。情けない。
一連のセッションが終わって休み時間にロビーに出ると、一題目の発表者で私の質問を鷹揚に受け流したいかにもベテランの先生が煙草を吸っておられた。NICUの感覚では使って楽になる機械なんだからどんどん使えばいいと思うんですがと直裁に質問してみると、確かにそうだよと答えて下さる。でも親御さんが納得しないんだと。人工呼吸器に対する抵抗がどうしてもあって、何とかそれ無しで頑張って欲しいとみなさん仰るんだと。
私はそれほどには狂っていなかったらしいというので少しは安心する。でも問題の根はかえって深いと思う。頑張って欲しい、って、呼吸と栄養は健康の基礎だ。息が苦しいのを頑張って堪える生活って他のことは何も出来ませんよ。日々の食料を入手するのに手一杯の生活では文化はないでしょうよ。何を我が子に強いているのか親御さんは分かっているのかなと、「子供の苦痛を考えず自己満足に終始する身勝手な親」という仮想敵に向かって憤慨してみる。
でもね、仮想敵って実在しないから仮想敵なのよ。
人工呼吸器を使った方が絶対に楽になるということが明白な状況でも人工呼吸器をかたくなに拒否される親御さんがもしいらっしゃったとしても、こどもさんが苦しい思いをしているのは決して親御さんだけの責任じゃない。それまでの来し方というものがある。脳性麻痺の二次障害の進行とともに呼吸機能も衰えていくのですとの説明が十分であったかと医師は考えなければならない。これまで、半端な状況でアリバイ的に人工呼吸器の仕様を薦めて来なかったかと反省もしてみた方が良い。親御さんの拒否を予想しつつ一応勧めるだけ薦めておいて、親御さんの拒否の言葉を得たらすぐに推薦を引っ込めて、何かあっても自分は親御さんに適切な治療手段を薦めたのに親御さんが拒否したんだという言い訳を可能にしただけのことが無かったか。親御さんが、あの時も薦められたけど人工呼吸無しで乗り切ったし今度もこの医者の言うことは話半分に聞いてればいいやと思ってしまうような状況を作ってきてなかったか。そういうのって、「悪縁」だよね。
by yamakaw
| 2004-09-11 17:50
| 医療関係あれこれ